30. 一周年の答え合わせ
朝の光が、同じ窓から二人ぶん差している。
旦那様はまだ幸せそうに寝ているのだ。
――このことは、覚え書きにも書かない。
書かなくても、忘れないからである。
◇
宴は、内輪でやった。
一年前の婚礼は、参列が従士長とヘートヴィヒの二人きり。今夜は、卓のほうが足りない。
弟のダーヴィトは実家の跡取りとして正面から入ってきて、玄関で直立不動になるのだけは、やめられずにいるらしい。叔母のヴィルトルートは、私を見るなり泣き出した。
「ジルヴィア、ごめんなさい! あのとき、わたくし、生贄だと」
「叔母様。生贄は、いま東屋で胡桃に水をやっておりますわ」
イルムガルト様は花を、ラインマルは竪琴を提げてやって来る。従士長は式典用の礼装で、ヘートヴィヒは朝から竈を三つ塞いでいた。
その竈から出てきたのは、胡桃の焼き菓子である。
使ったのは、実家から持ち帰った蜂蜜。四年ぶりに、封を切った。甘みは思ったより濃くて、少しだけ日向の匂いがする。父が私の誕生日のために町へ頼んだひと壺が、四年遅れで、こういう卓に出たのだ。……お父様。ずいぶん、遠回りをいたしましたわ。
元帥閣下からは、酒だけが届いた。使いの者が、たいそう真面目な顔で口上を伝えていく。
「『顔を出すと歌になるゆえ、やめておく』とのお言葉でございます」
賢明なご判断である。
卓には菜園の豆と、塩豚と、焼きたての菓子が並ぶ。灯を余分に点したせいで、砦めいた石の広間が今日はやけに黄色い。一年前、この部屋で私たちは長卓の端と端に座っていた。今夜の席は、隣どうしである。
◇
卓に着くなり、弟が待ちきれない顔で言った。
「姉上。うちの屋根、直りましたよ」
私は、湯呑を落としそうになる。
「……まあ」
「先月、葺き替えが終わったんだ。雨の日に桶を出さなくていい。……変な感じだよ。雨の音が、天井で止まるんだ」
一年前、私が欲しがったものは、たったそれだけである。
雨漏りのしない屋根。私の「欲しい」の棚で、いちばん長く後回しにされてきた一行である。それが今日、両方の家に揃ったのだ。私は返事の代わりに弟の頭へ手を伸ばして――届かないので、肩を叩いた。
「よくやりましたわ」
「僕、姉上より上手にやったと思うよ」
「まあ。生意気ですこと」
叔母が「男爵家も安泰ですわ」と鼻をすすり、イルムガルト様が「あなた、姉に似て口が減らないのね」と仰る。従士長は壁ぎわで、若い当主に酒を注ぐ手つきを、たいそう丁寧に教えている。
◇
宴の半ばで、ラインマルが竪琴を構えた。
「奥方様。一節だけ、新しいものを」
「歌になるようなことは、この家では何も起きておりませんけれど」
「起きております」
詩人は、たいそう堂々と弦を鳴らす。
――古鷲、巣に若木を植う。
――実るは十度目の秋という。
――それまで巣を、たたむ気はなし。
三行で、終わりだった。
短い歌である。短いのに、ヘートヴィヒは前掛けで目を押さえ、従士長は廊下のほうを向いてしまった。イルムガルト様は「悪くないわね」と仰って、扇で顔の下半分を隠していらっしゃる。
旦那様はといえば、いつものように、身の置き所のない顔をしていた。
――さて。
私は湯呑を置いて、一年目の口上を申し上げる。
「旦那様。……今日は、どの歌にいたしましょう」
「……若い者は、年寄りをからかうものではない」
一年前と、一字も違わない。
違うのは、この人が今夜、私の隣の席から一度も動いていないことだけである。
途中、従士長が「閣下。元帥閣下の酒の封を」と呼びに来た。旦那様は少し考えて、こう仰る。
「……従士長。あれは、貴様が開けよ」
「は」
「わしは、ここでよい」
従士長が、たいそう嬉しそうに封を切りに行く。
――「わしのことはよい」の、作り替えである。同じ形の言葉が今夜は、自分を後ろへ置くためではなく、ここから動かないために使われた。
◇
王都の噂のほうは、いつのまにか静かになったらしい。
財産目当ての小鳥も、三年で逃げる後添えも、この一年、どの酒場でも売れ行きが悪かったそうである。代わりに売れているのは、荷と靴と、若い者の歌だという。……陰口というものは歌に勝てなくなると、静かに歌のほうへ戻っていくものらしい。
宴が終わり、客が引き、家の灯が半分落ちた。
私は旦那様と二人、東屋の椅子に腰を下ろしている。
「……ジルヴィア」
「はい」
「一年、よう保ったな」
「あら。保ったのは、屋根のほうですわ」
彼が、低く笑う。
私は、一年前に自分が言ったことを思い出していた。長卓の端と端。心まで払う必要はない、と言われて、私は即座に受けたのである。あのとき私の帳面に載っていたのは、後見の判と、雨漏りのしない屋根の二行きりだった。
いまは、載らない品のほうがずっと多い。
「旦那様。あのとき、わたくし、こう申し上げましたわね。……利で参りましたのよ。居心地で、残りますけれど」
「……うむ。よう覚えておる」
「今はこうですわ――」
私は、言い直した。
「――惚れ直しで、住み着きますの」
旦那様は、しばらく黙っていらっしゃる。
それから、大きな手が私の手の上に重なった。返事はいつもどおり道具の置き方のように不器用で、いつもどおり、言葉よりずっと正直である。
勘定の言葉は、もう要らない。三年、私はそれでしか物を言えなかった。いまはもう、この庭のほうが、よほど上手に喋る。
夜風が、菜園を渡ってくる。
薄荷の匂いに、藁の匂いが少しだけ混ざっていた。細い若木は、まだ支柱に頼って立っている。十度目の秋までは、気の遠くなるほどある。
それでも、この木は今日も少しだけ伸びている。私の帳も、明日また一行増える。……気の長い勘定というのは、案外、退屈しないものらしい。
その枝の先に、若葉が二枚。
今朝、開いたばかりの葉である。




