23. 冬峠の報せ
厳冬の朝、門前に早馬が来た。
轡から、湯気が上がっている。乗ってきた関所の伝令は、馬から降りるなり膝をついた。頬が凍傷で赤黒く、口を開くまでに二度、息を継ぐ。
先遣隊が、峠で孤立している。
雪である。敵ではない。
根雪の早く来た年の峠は、道の形が変わる。二十一人の隊が荷を担いだまま尾根の途中で足止めを食い、今日で三日目に入るという。収容に出る指揮は、現地のルートガー様。
この屋敷にできることは、ひとつしかない。
「伝令。覚えて帰れ。書くより早い」
旦那様は伝令をその場に立たせたまま、三つだけ言った。
「一。荷を捨てさせよ。担いだまま待つな。積んで、風を避ける壁にせよ」
「二。靴を替えさせよ。濡れた靴のまま夜を越した者から、歩けなくなる」
「三――急がせるな」
伝令が、顔を上げる。
「急ぐ隊から、死ぬ。迎えの隊にも、同じことを言え。……復唱せよ」
伝令は三つとも、一字も違えずに繰り返した。それから、来たときより速く発っていく。
三十年前、二十三の男が吹雪の中で決めたことが、いま、暖かい書斎から峠へ運ばれていった。歌にはならない。荷と、靴と、速さの話である。
◇
そこからが、長い。
この屋敷から峠まで、早馬で丸一日。報せが往復するのに二日。つまり私たちは二日のあいだ、何ひとつできない。
待つのは、この一年でずいぶん稽古した。……そう思っていたけれど、これはまるで違う種類の待ちである。相手が払える日を待つのとも、この人が話し出すのを待つのとも違う。二十一人が雪の中でいま生きているか死んでいるかを、待つのだ。
旦那様は、書斎の地図の前に座った。
祈らない人である。三十年、峠で人を生かしてきた人が、神に頼む癖を持っていない。代わりにこの人は、地図を撫でた。峠の等高線を、指の腹で何度も。どこがどれくらい急で、どこに岩陰があって、どちらから風が吹くかを、この指は覚えているのである。
私は茶を淹れた。三度、淹れ替える。
湯呑が冷える前に取り替えるのは、飲ませるためではない。手を、冷やさないためである。この人の手が冷えると、私が困る。……そういう理屈でも立ててみないと、二日は長すぎるのだ。
一日目の夜。
彼は一度も寝台へ行かない。私も行かなかった。書斎の隅に椅子を運び、繕い物を膝に載せて、針を三度落とす。落とすたびに、暖炉の火が影を伸ばした。
夜半、扉が静かに開いて、従士長が薪を足しに来る。何も言わずに三本くべて、何も言わずに下がっていった。台所のほうでも、火はまだ落ちていない。ヘートヴィヒが湯を絶やさずにいるのである。
この家の全員が、峠のほうを向いて起きている。誰も、そうしようと決めたわけではない。
二日目の昼。
雪が止んで、山の稜線が白く光った。あちらの峠も晴れているかもしれない。晴れていれば、雪は締まる。締まれば、歩ける。……そういう素人の願いを、私は口に出さなかった。この人の前で当てにならない見込みを言うのは、失礼な気がしたのである。
代わりに、湯呑を替えた。菜園の隅から、雪の下に残っていた薬草を少しだけ摘んできて、茶に落とす。青い匂いが立つと、地図の前の肩が、ほんのわずかに下りた。
……先の奥様。お知恵を、少し拝借いたしますわ。
三年前の早春、私は父の枕元で似たような二日を過ごしている。あのときは、待っても何も来ないと途中で分かってしまった。今度は、来る。悪い報せかもしれないけれど、必ず来るのだ。……来ると分かっているだけで、待ちの重さがこんなにも違う。
二日目の夜半、彼がぽつりと言った。
「二十三の時、わしはあの尾根で、同じことを決めた」
「はい」
「決めたはよいが、朝まで一睡もせなんだ。……三十年経っても、変わらんな」
「変わりましたわ」
私は、湯呑を置いた。
「三十年前は、お一人で起きていらしたのでしょう。今夜は、二人ですわ」
彼は何も言わない。ただ、地図の上の指が、一度だけ止まる。
◇
報せは、三日目の午後に来た。
門の外から蹄の音が近づいてくる間、私は自分の心臓の音のほうがうるさいと思っていたのである。
伝令が、外套の雪も払わずに叫ぶ。
「収容、完了! ――全員、生還であります!」
ヘートヴィヒが両手で口を押さえた。従士長が、廊下の壁に片手をつく。この二人が同時に取り乱すのを、私は初めて見る。
旦那様は、椅子から立ち上がらなかった。
立ち上がらずに、そのまま天井を見る。喉が一度、大きく動く。
「……一人も、欠けなんだ」
声が、掠れている。
私は、椅子の背を掴んだ。掴まないと、膝が笑いそうだったのである。
三十年前に二十三の男がやったことを、今度は教え子がやった。教えたのはこの人で、やったのは若い方たちで、生きて帰ったのは二十一人である。歌になる要素は、たぶんどこにもない。誰も単騎で駆けていないし、誰も敵を退けていない。捨てた荷と、替えた靴下と、遅らせた足があるだけだ。
――ええ。ですから、わたくしが覚えておきますわ。
私は立ち上がって、椅子の後ろへ回った。
それから、広い背中に手を置く。
自分から背中に触れたのは、初めてである。上着ごしでも分かるほど、この人の背は熱かった。二日、地図の前で凍りついていた人の中で、いま何かが溶けている。
しばらくして大きな手が伸びてきて、私の手を取った。背に置いた手をそのまま前へ引いて、自分の両手で包む。
「……冷えておる」
「あら。旦那様のお背中は、熱うございましたわ」
「……そうか」
包まれた手の中で、指先がゆっくり温まっていく。厚い掌の、あちこちに硬いところがあった。斧と、鍬と、たぶん三十年前の手綱が作ったものである。
窓の外は、雪明かりで青い。雪の照り返しが天井まで届いて、暖炉の火と混ざり、部屋がひどく静かに明るい。
この夜は、乾かさないことにした。
◇
同じ頃、国境の向こうでは、隣国の使節が交渉の席へ着く支度を始めている。代替わりで揉めていた朝廷が、この冬に入って急に軟化したのだという。理由のひとつに、こんな報せが挙がっていた。不敗侯が、後進を鍛えている。北の峠で雪に孤立した隊が、一人も欠けずに戻った、と。剣を抜いた者は、誰もいない。それでも国境の風は、少しだけ向きを変えたのである。
◇
雪の緩み始めた頃、王都から先触れが届く。
勅使が、来るという。




