22. 教壇の不敗侯
大講堂の天井は、王宮の大広間より低い。
低いのに、声はよく通る。そういう造りなのだと、案内の学生が誇らしげに教えてくれた。段になった席が扇形に広がり、いちばん下に教壇がある。石の床は冷たく、外套を脱いだ肩に、朝の名残の寒さがまだ残っていた。
席が、埋まっていく。学生。教官。議員。それから、噂を聞きつけた見物の貴族。
満場である。
私は最後列の隅に座らせていただいた。ここからだと講堂の全部が見える。……そして講堂の全部が、武勇譚を待っているのも、よく見える。
控えの間で、彼は地図を三度たたみ直した。
緊張、という言葉をこの人に使うのは、たぶん失礼にあたる。けれど三十年、峠でも果たし状の前でも動かなかった手が、今日は紙の折り目を気にしている。
「旦那様」
「うむ」
「お茶は、いかがです?」
「……あとで、貰おう」
あとで。つまり、終わったあとで。この人には、済んだ後の楽しみをひとつ決めておく癖がある。峠でもそうしていたのだろうと、私は勝手に思っておいた。
旦那様が教壇に立つと、ざわめきが一度、きれいに引く。
大きい。白髪交じり。三十年、歌われ続けた背中。皆さま、いま頭の中で、峠の吹雪を思い浮かべておいでですのね。
そこで彼が、一度だけ顔を上げる。
扇形の席を、ゆっくりと端から端へ。誰を探しているのかは、たぶん私にしか分からない。最後列の隅で見つけて、それから――この人は、話し始めたのである。
◇
地図が広げられ、荷の目方の話が始まった。
一人あたり何斤まで。何を先に捨てるか。天幕は捨てるな、鍋も捨てるな。靴は火から拳ふたつ離して乾かし、中に乾いた布を詰めろ。替えの靴下は命綱と思え。凍えるのは足からで、足をやられた者は自分で歩けず、歩けない者を運ぶ隊は、そこから速さを落として、また凍える。
火の起こし方の話にもなった。濡れた薪を乾いた薪の上に組むな、下に置け。風上には人が立って、体で風を切ってやれ。焚き付けは懐で温めておけ。指がかじかんでからでは、火打ち石は使えない。
どれも、剣の話ではない。
二列目あたりの貴族が、隣とひそひそ話を始める。
中ほどの議員が、脚を組み替えた。
学生たちの顔にも、少しずつ「これは違う」という色が広がっていく。彼らが聞きに来たのは、単騎で千人を退けた話である。靴下の話ではない。
ざわめきが、細かい雨のように広がり始めた。
旦那様は、速さをまったく変えない。石を積むように、同じ調子で続けていく。
「引き返す日は、出る前に決めておけ」
声が、少しだけ低くなった。
「峠の上で決めると、必ず遅れる。人は、登った分を惜しむ。……惜しんだ分だけ、隊が減る」
それから、彼は顔を上げる。
「わしの講義に、斬り合いは出てこん。……出てこんかったゆえ、わしはここに立っておる」
ざわめきが、ひときわ大きくなる。
誰かが小さく笑ったのが、最後列まで届く。歌を期待して来た方々にとって、これは肩透かしなのだ。私は膝の上で、扇の骨をきつく握っていた。
悪趣味な楽しみの持ち主として、申し上げておく。剥がして出てくるものの値打ちを知らない方が、この講堂には多すぎる。歌が欲しいなら酒場へお行きなさいませ。ここで配られているのは、生きて帰る方法ですのよ。
◇
そのときである。
前から三列目で、一人の若い士官が立ち上がった。
喪章は、もう外れている。
「――質問を、よろしいでしょうか?」
講堂が、静まる。
「北の関所詰め、ルートガーと申します。……この秋、自分の同期が峠で死にました」
息を吸う音が、あちこちで聞こえる。
「軽装で、期限に間に合わせようとして、雪に遭いました。……いま閣下が仰った、引き返す日の決め方を」
若者の声が、そこで一度、掠れる。
「あれが知っていたなら。……自分の同期は、死なずに済んだはずです」
誰も、何も言わなかった。
脚を組み替えていた議員が、組み替えるのをやめる。ひそひそ話が消える。そして――講堂のあちこちで、紙を捲る音と、ペンの走る音が、少しずつ増え始めたのである。
肩透かしが、教範に変わっていく音である。
私は最後列の隅で、扇の骨から指を離した。離した指が、少し痺れている。
……ええ。これで、よろしいのですわ。
わたくしの持ち分が、いま、講堂いっぱいに配られている。惜しくないと言えば嘘になる。けれど惜しさの下から、聞いたことのない気持ちがひとつ、出てきた。誇らしい、というやつである。三年、私は自分の何かを誇ったことがなかった。ましてや他人の何かを誇ったことなど、一度もない。
旦那様は、しばらく若者を見ていた。それから、静かに答える。
「……済まん。十二年、遅れた」
謝罪である。若い士官へ向けた、というより、この十二年ぶんの全部へ向けた謝罪だった。
彼は地図を巻き、最後にこう言う。
「歌は、若い者の胆を作る。教練は、若い者の膝を守る。……両方あって、兵は生きて帰る」
◇
講義が終わると、人が壇に集まった。学校の教官。議員の使い。差し出される名刺の束。三十年ぶりに実物を捕まえた王都は、なかなか放してくれない。
人垣の中に、脚を組み替えていた議員の顔があった。名刺を差し出しながら、低い声でこう言ったのだそうである。
「……装具の件、今期の議会に出します」
旦那様は「頼む」とだけ答えたという。三十年の歌が取れなかった予算が、靴下の話ひとつで動いた。歌には歌の効き目があり、靴下には靴下の効き目がある。どちらも人を生かすけれど、金を出すのは靴下のほうらしい。
ようやく人垣を抜けてきた旦那様は、私の顔を見るなり、こう仰った。
「……帰るか?」
「まだ、たくさんお声が掛かっておりますけれど」
「家内の茶が、飲みたい」
満場の拍手より、それが欲しかったらしい。
私は扇の陰で、少しだけ笑った。三十年ぶりの晴れ舞台を降りた人の第一声が、茶である。この人は本当に、歌になりにくい。
控えの間で、約束どおり一杯お淹れする。旦那様は湯呑を両手で包み、飲み干すまでのあいだ、ひとことも喋らなかった。飲み終えてから「……うまい」と仰る。三十年ぶんの緊張が、その一言で剥がれ落ちたように見える。
馬車の窓から、練兵場が見えた。夏に黙って眺めていたあの場所を、今日はもう黙って見てはいない。指をひとつ持ち上げて、「あそこの排水は、悪い」と仰る。
王都を発つ日、北から報せが届いた。
峠の根雪が、例年より早いという。




