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2. 目減りの答え合わせ

 祝いの歌は、三日続いた。


 村の衆が入れ替わり門前へ来ては、酒気混じりの声で歌っていく。演目は決まって千人退け。晴れた空に届けとばかりの大声だから、屋敷のどこにいても聞こえるのである。


 当の旦那様は、歌が始まるたび、屋敷の奥へ奥へと移動なさった。二日目には書斎、三日目には薪小屋である。


 不敗侯、村の衆に敗走中。


 ところで、嫁いで四日目にして、私はこの家の朝に驚いている。


 実家の朝は、雨漏りの雫と利息の計算で始まった。ここの朝は、鳥の声と、庭の土の匂いと、遠くで薪の割れる音で始まる。帳簿のない朝というものを、私は三年ぶりに知った。起き抜けの胸の、妙に軽いこと。軽すぎて、何かの払い忘れではないかと、かえって不安になるくらいである。


「閣下は、お逃げになると強うございますので」


 従士長のタンクレートは大真面目にそう言って、薪小屋へ茶を運ぶ私の先に立った。小屋の中は、乾いた木の匂いで満ちている。積み上がった薪の山の陰に、王国一の武人が、気配を消して腰掛けていた。膝の上に猫でも載っていそうな座り方である。


「旦那様。お茶ですわ」


「……済まん」


「歌は、あと二日もすれば飽きられますわ。それまでの籠城ですわね」


「籠城なら、慣れておる」


 伝説の籠城戦は、薪小屋で茶を飲むことらしい。私は笑いを袖の内に畳んで、それから、従士長のとっておきの補記を受け取ったのである。


「時に奥方様。閣下は此度のご縁談の断りのお文を、三度お書きかけになりました」


「あら」


「三度とも、火にくべておいででした」


 夜、暖炉の前でその話を持ち出すと、旦那様の咳払いが三つ続いた。曰く、釣り合いが取れぬと思ったのだ、と。曰く、若い人の一生を、年寄りの都合で買うようで気が引けた、と。曰く――三度目の理由は、いくら待っても教えていただけなかった。


「では、お断りにならなくて、ようございましたわね」


「…………うむ」


 うむ、まで、たっぷり十を数えた。この人の沈黙は、不機嫌ではない。言葉の在庫を、ゆっくり確かめる人なのだ。


 実家の帳場に、こんな沈黙はなかった。帳場の客は、待たせれば怒る。即答が美徳で、沈黙は損だった。十を数えて返ってくる「うむ」を、火の爆ぜる音と一緒に待つ夜が、私は早くも嫌いではないのである。


         ◇


 その夜の答え合わせは、「不敗」の名である。


「三十年、一度もお負けにならなかったと歌われておりますけれど」


「……退いた戦は、数えきれん」


 旦那様は火掻き棒で薪を直しながら、他人事のように言った。勝てぬと見れば、退く。退けば、負けとは記録されない。


「帳簿の綾、でございますのね」


「そうだ。不敗というのは、逃げ足の別名でな」


 そこへ、茶を替えに来た従士長が、静かに一枚置いていった。


「――全員を生かして帰す退き戦は、勝ち戦より難しゅうございます。三十年、それをなさった方を、わたくしはお一人しか存じません」


 旦那様は何か言いかけて、やめて、薪を突いた。火の粉が上がる。褒められ慣れていない人は、薪に当たるのである。


 不敗の名は、逃げ足に目減りして――全員連れて帰る逃げ足だった分だけ、増えた。


 妙な手応えである。三年間、開くたびに何かが減っていく数字ばかり見てきた。利息、修繕費、弟の学費。それが今は、増えるのである。ペンだこのある指先が、うずうずしている。


「旦那様。武勇伝と申すもの、ご本人に伺うと、だいたい目減りいたしますのね」


「……済まんな」


「謝られる筋ではございませんの。目減りした分だけ――旦那様が、増えますのよ」


 彼は湯気の向こうで、妙な顔をなさった。歌では三十年褒められ続けて、本当のところを褒められたのは、たぶん十年ぶりくらいなのだ。


「明日は、どの歌にいたしましょう」


「……若い者は、年寄りをからかうものではない」


「からかっておりませんわ。答え合わせですの」


 盛った数字は、締めてみないと気が済まない性分である。それに――締めるたびに実物が増える帳簿など、生まれて初めてなのだ。


       ◇


 王都の酒場では、今夜も不敗侯の歌が掛かる。橋が三本落ち、軍旗が七本折れ、千の敵が峠を退く。常連は五杯目の頃に歌い終わり、近頃はその後ろに、新しい一節を付け足すのが流行りである。曰く――齢五十三の戦神、若き後添えを娶りしと。命知らずの花嫁よ、北の砦で息災か。値の張る酒ほど、盛りは大きくなるという。杯が空くたび、噂に尾鰭(おひれ)が生える。


       ◇


 数日ののち、王都から先触れが届く。


 武具の好事家(こうずか)を名乗る商人が、ぜひお目通りを願いたいという。用向きの欄には、こうあった。


『伝説の「戦神の剣」を、拝見つかまつりたく』


 文を読んだ旦那様が、大変に気まずい顔をなさる。その顔で、私にはもう分かるのである。


 この歌も、目減りする。

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