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1. 破格ですわ

 天井から、三つ数えるごとに雫が落ちる。


 私は帳簿から顔を上げずに、机の端の桶を半歩だけ左へ押した。雫の音が、木から水へ変わる。オスターフェルト男爵家の帳場では、雨の日はこれで一仕事なのである。


 父が急に逝って、三年になる。母は早くに亡く、弟のダーヴィトは当時十二。十九だった私は、葬儀の翌朝から借金の利息と小麦の相場を覚えた。死に物狂いの奮闘を越え、なんとか父の代の借財は今年の春に締め終わり、うちはもう傾いていない。


 傾いているのは、屋根だけである。


 屋根の修繕費というものは、いつだって「今でなくてよい」の棚に載るのだ。私の「欲しい」も、だいたい同じ棚に載っている。


「ジルヴィア。縁談よ。……怒らないで聞いてちょうだいね」


 叔母のヴィルトルートが、雨風と一緒に入ってきた。怒る理由は、まだない。うちには縁談が要るのだ。男爵家の相続は当主が未成年のうちは認められず、裁可には〈爵位相当の後見人の判〉が要る。ダーヴィトは十五。つまり後見の縁家が必要で、それがつまり、私の嫁ぎ先である。


「お相手は?」


「……アイヒェンヴァルト侯爵」


 ペンが、止まった。


 その名を知らない者は、この王国にいない。単騎で橋を三本落とし、敵の軍旗を七本折り、北のオルベルン峠で千の敵を退けた男。吟遊詩人が三十年歌い続ける生ける伝説、「不敗侯」バルタザール。御年五十三。十年前に奥方を亡くして以来、北の領地に引きこもり、あまりの武名に、後添えの来手がないという。


 叔母は泣いた。


「ごめんなさい! 生贄だわ。五十三の戦神に、二十三の姪を差し出すなんて」


「泣かれなくて結構ですわ。ほかのお話は?」


「あるにはあるわよ。どこも、後見の判の代わりに、うちの領ごと呑む気の家ばかり。……呑む気のない方は、お一人だけ」


 私は条件書を開いた。読む。もう一度読む。念のため、三度目。


 後見の判。婚礼の費用は先方持ち。持参金は不要。妻となる者への月々の手当と、万一の際の寡婦給の定めまで、几帳面な字で並んでいる。それだけ差し出して、求める欄には、たった一行。「家政を預かる夫人」。


 ――おかしな条件書である。


 差し出すものばかり並んで、受け取る欄が一行しかない。こう書くのは、自分の取り分を最初から諦めている人だ。


「破格ですわ」


「ジルヴィア!?」


「後見の判ひとつに、侯爵領の家政と、雨漏りのない屋敷。……破格ですわ」


 弟は目を赤くして、姉上を怖い人にやるのかと叫んだ。歌で育った子である。私は弟の頭に手を置く。


「怖い方かどうかは、お会いして帳尻を見ますわ」


        ◇


 北へ三日の馬車旅の果て、アイヒェンヴァルトの屋敷は山裾にあった。


 石造りの、飾り気のない、砦めいた構え。出迎えの列の代わりに、庭で大きな背中がひとつ、腰を伸ばしていた。白髪交じりの大男である。土だらけの手に、鍬(くわ)。


「ご精が出ますのね。旦那様は、どちらに?」


 大男は少し首を傾げ、私を不思議そうに見つめた。


「……わしだが」


 伝説は、庭にいた。


 大男は鍬を持ったまま、しばらく私を見下ろしている。値踏みの目ではない。もっと妙な、遠くのものを間近に見つけたような目である。それから彼は目を伏せて、正直に言ったのである。


「……先に、詫びておく。わしは今日、会うて断るつもりでおった。釣り合いの取れぬ縁だ。あなたの一生の、帳尻が合わん」


 帳尻、と来た。それなら、私の畑である。


「合うかどうかは、わたくしが締めますわ。……ときに旦那様、あちらの豆の支柱、傾いておりましてよ」


「……む?」


 断られる前に、私は畑へ入った。支柱を起こす。土は乾いて温かく、豆の蔓は青々と巻きついている。大男が隣にかがんで、無言で杭を押さえた。しばらく二人、黙って手を動かす。やがて、低い声が言ったのである。


「……家政を預かる人が、要る。うちは、後見の判しか出せんが」


「それで結構ですのよ。承りましたわ」


 承諾の口上は、それだけである。あれが、怖がられ慣れた人が怖がられなかった日の顔だと知るのは、後のことだ。


 婚礼は、その週のうちに領地の礼拝堂で済んだ。参列は従士長のタンクレートと、家政婦長のヘートヴィヒの二人きり。誓いの声は低くて静かで、一度だけ、掠れた。


 初日の夕餉(ゆうげ)は、長い長い食卓の、端と端である。


 塩豚の皿の湯気が、向こう端に届く頃には冷めている距離だ。その距離の向こうから、彼はフォークを置いて、几帳面に言った。


「先に、言うておく。わしに嫁いだ利は、家の後見だけでよい。心まで払う必要はない」


 条件書と、同じ声で喋る人である。


「もちろん。利で参りましたのよ」


 私は塩豚を一切れ、行儀よく口に運んでから、申し上げた。


「でも――居心地で、残りますけれど。ふふっ」


 返事は、咳払いがひとつ。食卓の向こうで、ヘートヴィヒの肩が小さく揺れている。


 あてがわれた私の部屋は、彼の居室と、居間を挟んだ続きの間である。砦の主の遠慮は、間取りにまで行き届いていた。


         ◇


 夜、荷を解いていると、村の方から風に乗って歌が届いた。婚礼祝いの、陽気な節。よく聞けば、旦那様の武勇伝――吹雪の峠、単騎の侯爵、退く千の敵。


 茶を運んで居間を覗くと、当の伝説は、歌から逃げるように窓へ背を向けている。


「千人、と歌っておりますわ」


「…………」


 旦那様はバツが悪そうに視線を落とした。


「おひとりで、千人?」


 咳払い。長い沈黙。薪がひとつ爆ぜて、それから彼は、観念したように白状した。


「……あれは、雪崩だ。わしは吹雪の中で道を間違えて、敵の後ろに出ただけでな。崩れたのは雪で、わしは剣も抜いておらん」


 千人が、迷子ひとりに目減りした。笑いを噛み殺すのに、難儀する。


 ――ところが、である。


 寝所へ下がる廊下で、従士長のタンクレートが声を低くして付け足したのだ。


「奥方様。先ほどのお話には、続きがございます。あの吹雪で、閣下は殿(しんがり)の一隊を、一人も凍えさせずに連れ帰られました。捨てる荷の順、火を焚く場所、靴を乾かす順番まで、すべて閣下がお決めになって。……歌は、そこを歌いませなんだ」


「あなたは、歌ってくださいますのね」


「補記でございます」


 老従士は折り目正しく一礼して、蝋燭の灯の外へ消える。


 私は廊下に立ったまま、胸の内で帳簿を開いた。千人退けの欄から、千人が消える。代わりに、吹雪の中で部下の靴を数える大男がひとり、記帳される。


 ……あら。


 差し引きで、増えている。


 嫁いだ日の夜に、私はこの家の一番の財産を見つけてしまったらしい。歌より面白い旦那様が、この屋敷にはいる。しかも当人だけが、それを知らないのである。


 明日からは、どの歌にいたしましょう。

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