↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
3/30

3. 戦神の剣は、鞘から抜けません

 初夏の入りの、よく晴れた日である。


 好事家は、揉み手と一緒にやって来た。王都で武具を商うという、身なりのよい男である。応接間に通されるなり、壁の剣掛けへ目を吸い付かせた。飾ってあるのは儀典用の一振り。柄には金、鞘には侯爵家の紋。窓から差す昼の光を受けて、拵え(こしらえ)ばかりが立派に光っている。


「おお……あれが、城門を一太刀で断ったという、戦神の剣……!」


「見るか」


 旦那様は剣を下ろし、鞘に手を掛け――止まった。


 力が入る。腕の筋が浮く。鍛え上げた大男が、満身の力で、剣を、抜こうとして。


「…………抜けん」


「錆でございますな」


 従士長が横から補記した。鞘と柄は磨いてまいりましたが、刀身は十年、どなたもお抜きになりませんでしたので、中で固まっております――とのことである。


 外側ばかり磨かれて、中身は放って置かれた。歌と、同じ拵えである。


 十年、式典がなかった。つまりこの人は十年、この剣を抜いて見せる相手を持たなかったのである。錆の匂いの向こうに、そういう年月がちらりと見えて――見えた分は、胸のいちばん静かな棚へ、そっと仕舞っておく。


 好事家は膝から崩れかけた。旦那様は気の毒に思われたのか、納屋から別の一振りを持って来させる。無銘。刃こぼれの跡だらけ。柄糸は、三度は巻き直してある。鞘の塗りは剥げて、握りの位置だけが、飴色に光っていた。


 道具の値打ちは、手擦れで測る。実家の机も、父の算盤も、そうだった。この剣は――ずいぶんと、高い。


「実際に使うたのは、こちらだ」


「は、はあ……銘は?」


「ない。数打ちだ。折れたら困るゆえ、二本ずつ買うた」


 戦神の剣、まとめ買いである。言ってしまってから、ご本人が一番ばつの悪い顔をなさるのが、この家の見どころだ。


 好事家は肩を落として帳面を閉じた。それでも商人の目だけは抜け目なく私を測って、揉み手のまま言ったものだ。


「いやはや。……若奥方様は、良い買い物をなさいましたな」


 値踏みである。財産目当ての小娘が、と目が言っている。


「あら」


 私は茶を、静かに注ぎ足して差し上げる。


「値の付かないものほど、良い買い物ですのよ。お商売なら、ご存じでございましょう?」


 好事家は妙な顔で笑って、帰っていった。


 値の付かないものを一番に数える日が来るとは。利息の計算で夜を明かしていた三年前の私が聞いたら、笑って取り合わないところである。


 なお、錆びた儀典の剣は、その日のうちに従士長が研ぎへ出した。「飾りにも、手入れは要りますので」と、すました顔で。……あの折り目正しい老従士の胸の内には、閣下がもう一度、表の光の下へお出になる日の備えが、まだ畳まれずに残っているのかもしれない。


         ◇


 夜の答え合わせで、剣の歌は面白いことになった。


「城門をお斬りになった、というのは?」


「斬れるわけがなかろう。門は工兵が開けた。わしは前に立っておっただけだ」


「では、いくさで一番お役に立った得物は?」


 彼は少し考えた。暖炉の火が、白髪交じりの横顔を照らしている。大真面目な答えが、それから落ちてくる。


「鍋と、鶴嘴(つるはし)だ」


「鍋」


「兵は剣では死なん。飢えと寒さで死ぬ。温かい飯と、雪を掘る道具と、乾いた靴。……道具というものは、人を生かす順に偉い」


 剣の歌が、鍋に目減りした。そして例のごとく、目減りした分だけ、この人が増えるのである。人を生かす順に偉い。三年、道具の値段ばかり付けてきた私は、その物差しに、静かに参ってしまった。


         ◇


 ところで、この数日で私はひとつ、歌にない発見をしていた。


 茶の時間、菓子鉢が出る。旦那様は毎度「わしはよい」と仰って、鉢を私の方へ押しやる。そのくせ、視線だけが、干し杏の砂糖がけの上を、名残惜しそうに往復するのである。


「旦那様。お一つ、いかが?」


「……いや、わしは」


「お顔が、召し上がっていますわ」


 沈黙。それから大きな手が、観念して一番小さいひと粒を取った。台所の方で、ヘートヴィヒの吹き出す音がする。あとで聞けば、閣下の甘党は家中十年の公然の秘密で、隠していらっしゃるのは当人だけなのだという。


 翌日の茶の時間である。旦那様は領地の報せを読むふりをなさりながら、大きな手をすっと伸ばして、菓子鉢を心持ち、私の側へ押して寄越した。目は、合わせない。咳払いが、ひとつ。


「……あなたも、食べるとよい」


「まあ。ご相伴いたしますわ」


 以来、鉢は食卓の真ん中に座を得て、数日後には、ヘートヴィヒがすました顔で、鉢そのものを大ぶりに替えている。


「菓子鉢の帳尻が、合いませんので」


 台所と奥方の、無言の共同事業である。世話の形でしか出せない好意というものが、この家にはあるのだ。歌は千人だの城門だの歌うけれど、実物は、干し杏のひと粒で観念なさる。その景色を知っているのは、いまのところ、この家の者だけである。


 ――そこへ、また先触れが届いた。今度は王都の甥御殿、オイゲン様。用向きは「叔父上のご様子伺い」。


 受け取ったヘートヴィヒの眉が、あからさまに曇った。様子伺いにいらっしゃる方の様子を、先に伺いたい顔である。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。