18. 名前はお貸しできません
その朝、応接間に椅子が四脚、並べられていた。
主の椅子。客の椅子が二脚。そして卓の脇、主の斜め前に、もう一脚。
従士長が、何も言わずに置いたのである。
私はその一脚を、しばらく眺めていた。晩秋の朝の光が、背もたれの木目を白く撫でている。座面には、ヘートヴィヒが夜のうちに掛けたらしい薄い敷物。
実家の帳場では、椅子は自分で運ぶものである。父が逝ってからの三年、私は自分の椅子を自分で引きずって、自分で座らせてきた。誰かが先に出しておいてくれる椅子、というものを、私は久しく知らない。
……いけない。客はまだ来ていないのに、目のあたりが熱い。
「奥様。お茶は、いつお出ししましょう?」
ヘートヴィヒの声で、正気に戻った。
◇
司令部からの使者は、三人である。うち一人は官房の高官で、あとの二人は書記官。名乗りも所作も、これまでの若鷲とはまるで違う。磨かれた靴、隙のない礼、そして決して急がない話し方。
用件は、単純だった。
北方鎮台の司令に、不敗侯の名を。
「実務は次席が執ります。閣下には、名簿のいちばん上にお名前をいただければ、それで」
名前だけ。
王都で寝ていてよい。峠へ行かなくてよい。剣も抜かなくてよい。ただ名前を、北の壁に塗らせてほしい――そういう話である。
旦那様は、黙っていた。
この断り方がいちばん難しいことは、私にも分かる。これまでの要請には、老いを晒すか嘘をつくかの二択があった。今度のものには、それがない。ただ座っているだけで若い者の盾になれる、と言われているのだ。断れば、盾を惜しんだことになる。
私は、隣の大きな手を見ていた。
肘掛けの上で、指が一本ずつ順に曲げられている。数えているのだ。この人が黙って数えるときは、たいてい、断る理由を探して見つからないときである。
三十年、自分の名を疎んじてきた人が、その名を出せば若い者が死なずに済むと言われている。断れる道理は、たぶん、この人の中にはない。
火鉢の炭が、小さく鳴った。
「――名は、若い方の盾になりますの?」
私が口を挟むと、高官の目が初めてこちらを向いた。奥方は座っていればよろしい、という色が、たしかにひとすじ混じっている。
「奥方様。なりますとも。名は、それ自体が抑止でございます」
「では、伺いますわ。その名は、何でできておりますの?」
「……は?」
「歌ですわ」
高官の眉が、わずかに動く。
「単騎で千人を退けた名。城門を断った名。矢の雨を傷ひとつなく歩いた名。北の壁に塗っていただくのは、その名でございましょう?」
「それは、閣下のご武功が――」
「ご武功は、別にございますのよ。ですけれど、峠の関所で若い方が読んでいらっしゃるのは、ご武功ではなく歌のほうですわ」
声を落として、続ける。
「この秋、峠で三人お亡くなりになりましたわ。装具が足りないまま、期限に間に合わせようとなさって。……歌のとおりに、なさったのですの」
自分の声が、思ったより低いのに気づいた。
三人。名簿の上では、三行である。けれど喪章の使者は、そのうちの一人の名を、とうとう言えなかった。申し上げるとまだ生きている気がすると言って、口の形だけ作って、飲み込んだ。……あの飲み込み方を、私は忘れられそうにない。
三行と、飲み込まれた名前ひとつ。その差を知ってしまった者は、名簿の話を軽くできなくなる。
「名を北にお立てになれば、その歌がもう一度立ちますわ。歌を信じた若い方が、また峠で死にますの」
部屋が、静まった。
やがて、旦那様が口を開く。
「名は、貸せん」
「閣下――」
「代わりに、人を貸す」
そこで彼は、私のほうを見た。ほんの一瞬。それから高官へ向き直って、こう言ったのである。
「家内の案を、わしの案とする」
◇
案は、こうである。
不敗侯は司令の職を受けない。代わりに、王都の士官学校で冬季行軍の教練を持つ。教える中身は、退き方と、荷と、靴と、火。名前ではなく、中身を出す。
「……教官、でございますか?」
「そうだ」
「閣下ほどのお方が、教壇に」
「教壇のほうが、名簿より、人が死なん」
高官が言葉を探している間に、私は付け加えておいた。
「それから、若い方々の食い扶持は、そちら持ちでございますわ」
「食い扶持」
「燕麦と塩豚ですの。当家はいま、週に二度、三人前を出しておりますのよ。三人が三十人になりましたら、当家の冬が越せませんわ。……値切られては、困りますの」
高官はたっぷり十を数えるほど黙って、それから、堪えきれないという顔で笑いだした。隅に控えていた従士長が、目だけで頷く。あとで聞けば、あの笑いが出た時点で、話は八分方こちらに転んでいたのだそうである。
「……補記でございます。閣下は、あの高官殿がお笑いになるまで、ずっと肘掛けを握っておいででした。奥様が『歌ですわ』と仰った拍から、ひと時も緩めずに」
◇
使者たちが帰ると、応接間には四脚の椅子が残る。
私は自分の一脚を卓のほうへ少し寄せて、座り直した。参謀の位置である。三年、自分で運んできた椅子が、いまは出しておいてもらう椅子になっている。
「……よく、言うた」
「あら。旦那様こそ」
彼は照れ隠しの咳払いをひとつして、それから大きな手で、私の椅子の背をこつん、と叩く。
「これは、あなたの椅子だ。……従士長には、そう言うてある」
――そう言うてある、ですって。
私は俯いて、火鉢の炭を意味もなく突いた。突きながら、この人はいつからこの椅子の算段をしていたのだろう、と考える。答えは出ない。出ないけれど、たぶんずいぶん前からだ。この人の支度は、いつも黙って先に済んでいる。
返事は、五日後に来た。王都は案を呑み、ひとつだけ条件を付けてきたという。
――その教練の成果を、見せよ。
試される側に、回ったのである。
その晩、寝る前に廊下の窓から庭を見た。晩秋の月が、枯れた菜園を白く照らしている。試される、というのは、つまりこの人がもう一度だけ、人前に立つということだ。名簿にではなく、教壇に。
……胸のあたりが、少し騒がしい。書斎で三人に話すのと、王都の教壇から公に説くのとは、話が別だ。歌ではなく本当のほうを、教えとして世へ出す。この人が三十年してこなかったのは、それである。夏に錆びた儀典の剣をさっさと研ぎへ出しておいた老従士は、たぶん、この日のことを待っていたのだ。




