17. 歌には歌を
吟遊詩人というものを、私は間近で見たことがない。
ラインマルと名乗った男は三十八。旅の埃を落とした上着に、よく手入れされた竪琴。物腰はやわらかく、目だけがやたらによく動く。応接間に通されるなり、調度と、旦那様の背丈と、私の指のペンだこまで、ひととおり値踏みしてしまったのが分かった。
商売人である。……あら、と思う。この目つきには覚えがある。実家へ来ていた仕入れの連中と、同じ目だ。
「本日は、新しい歌をお持ちいたしました」
「……歌を」
「閣下の、新しいお歌でございます」
旦那様の眉間に、久々の谷。断る間もなく、弦が鳴った。
――老いたる鷲、北を見る。
――峠に風の立つ夜、剣を取りて厩へ向かう。
――鞍に置きたる白き髪、いまだ衰えを知らず。歌は再び、国境へ――。
景気のいい曲である。節は覚えやすく、繰り返しがよく効いている。酒場で三度も聞けば、たぶん誰でも口ずさめる。詩人の指は迷いなく、声はよく伸び、なるほどこれは売り物だと感心してしまう。
当の老いたる鷲は、椅子の上でまったく身の置き所がない。歌が「鞍に置きたる白き髪」まで来たあたりで、その白き髪の持ち主は、湯呑を持つ手を膝へ下ろして、天井の隅を見ていた。
「……厩へは、行かんぞ」
「はい?」
「厩には荷馬しかおらん。軍馬は十年前に手放した」
「か、閣下。歌に、そういうことは」
「それに剣は、この夏まで錆びついて抜けなんだ」
詩人が言葉に詰まる。私は横から茶を注ぎながら、申し上げた。
「本当ですのよ。この夏、武具のお商売の方が拝みにいらして、抜けずにお帰りになりましたの。……いまは研いでございますけれど、間に合いましたのは、つい先ごろですわ」
ラインマルは、笑った。愛想笑いではなく、ちゃんと可笑しそうに。それから竪琴を膝に伏せて、正直な顔になる。
「……実を申しますと、庭先を通ってまいりましたときに、拝見してしまいまして」
「何を?」
「閣下が、腰を伸ばしていらっしゃるところを。……お膝に、土がついておいででした。歌の中の御方には、土はつきません」
旦那様が、目を逸らす。
商売人の目は、正直である。この男はいま、自分の売り物と目の前の実物との差額を、すっかり勘定してしまったのだ。
◇
茶が二杯目に入った頃、私は詩人に尋ねてみた。歌い手というものの、暮らしの立て方をである。
答えは、たいそう即物的だった。酒場の払いは席料の何割かで、祝いの宴は一晩いくら。新しい歌を仕込むには半年かかり、当たるのは五つに一つ。三十年歌われ続けている「不敗侯」は、この商売では年金のようなものだという。
「不敗侯の一節が入っていれば、どの町でも杯が上がります。……正直に申しまして、閣下の歌でわたくしどもは、冬を越しております。あのお歌が消えましたら、わたくしは弟子を三人、食わせられなくなりますな」
なるほど、と私は思った。
この歌の下には、思っていたより多くの人が座っている。北の抑止。若い者の胆。そしていま目の前で、歌い手の冬。……この三本の柱を蹴倒して手に入るものが「本当のところ」であるなら、私はそれを蹴倒す気には、どうしてもなれない。
――ここで、私は少し考えた。
考えた時間は、たぶん湯呑ふたつぶんもなかったと思う。
歌を剥がすことは、しない。剥がした先の本当のところは、そもそも売り物ではない。それは夏の夜に決めた。決めたはずである。
けれど。
いまこの人が本当にやっていることを、まだ誰も歌っていないのだ。
胸の内から一枚を抜き出す気分である。……正直に申し上げると、少し惜しかった。三年ぶりに手に入れた、わたくしだけの持ち分なのだ。惜しくないわけがない。雷の夜に、この人が黙って蝋燭を寄せてくれたときから、私はこの独り占めが好きで好きで仕方がなかったのである。
それでも、抜いた。
「詩人さま。ひとつ、新しいお話がございますのよ」
「――ほう」
「旦那様はいま、若い士官がたに、峠の越し方を教えておいでですの」
弦を押さえていた指が、止まる。
「荷の目方。靴の乾かし方。引き返す日の決め方。……派手ではございませんわ。剣も抜きませんし、厩にも行きません。ですけれど、来年の冬は、峠で死ぬ方が減るかもしれませんの」
私はもう一杯、茶を注いだ。
「歌うなら、そちらをどうぞ。……盛るなら、お若い方々のほうを盛ってくださいましな」
ラインマルは、長いこと黙っていた。
それから竪琴を置いて、深く息を吐く。
「奥方様。歌の種というものは、十年に一度しか落ちてまいりません」
「あら。では、拾い得ですわね」
「拾わせていただきます。……ただし、旧いお歌のほうは、そのまま歌わせていただきますよ。商売でございますので」
「もちろんですわ。あちらは王都の持ち物ですもの」
◇
旦那様が、ふいに口を開いた。
「詩人。名は、出すな」
「は?」
「若い者らの名だ。関所詰めの三人。……名が歌に入ると、あれらの背が重くなる」
それから、少し言い淀んで。
「あとは、家内の言うとおりにしてくれ」
――いま、この人は。
私は湯呑を持ったまま、しばらく動けなかった。人前で、この人が、家内の言うとおりに、と言ったのである。三十年、誰の指図も受けずに峠を越えてきた人が。
砦の石が、今度は外側へ向かって、ひとつ落ちる。
この人は、私に譲ったのではない。いま初めて、他人の判断を人前で背負ったのである。三十年、誰にも背負わせず、誰の分も背負ってきた人が。
帰り際、ラインマルが思い出したように振り返った。
「奥方様は、歌になりたくはございませんか。若き奥方が、伝説の武人を射止めた――これは、売れます」
「なりたくございませんわ」
「おや。なぜでございましょう?」
「歌になりますと、目減りいたしますもの」
詩人は目を丸くして、それから声を立てて笑い、上機嫌で坂を下りていった。
◇
その晩、私は胸の内をそっと覗いてみる。
一枚、抜いたはずである。それなのに、薄くなった気がしない。……妙なものだ。帳場の道理では、出したものは減る。減らないのなら、それはそもそも帳簿に載る品ではなかったということになる。
載らない品ばかりが増えていく。嫁いでからの半年、私の暮らしは、そういう具合にできているらしい。
三日後、門前に馬が止まった。書状ではない。今度は、官服である。
王都司令部から正式の要請が来る、という先触れであった。




