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17/30

17. 歌には歌を

 吟遊詩人というものを、私は間近で見たことがない。


 ラインマルと名乗った男は三十八。旅の埃を落とした上着に、よく手入れされた竪琴(たてごと)。物腰はやわらかく、目だけがやたらによく動く。応接間に通されるなり、調度と、旦那様の背丈と、私の指のペンだこまで、ひととおり値踏みしてしまったのが分かった。


 商売人である。……あら、と思う。この目つきには覚えがある。実家へ来ていた仕入れの連中と、同じ目だ。


「本日は、新しい歌をお持ちいたしました」


「……歌を」


「閣下の、新しいお歌でございます」


 旦那様の眉間に、久々の谷。断る間もなく、弦が鳴った。


 ――老いたる鷲、北を見る。


 ――峠に風の立つ夜、剣を取りて厩へ向かう。


 ――鞍に置きたる白き髪、いまだ衰えを知らず。歌は再び、国境へ――。


 景気のいい曲である。節は覚えやすく、繰り返しがよく効いている。酒場で三度も聞けば、たぶん誰でも口ずさめる。詩人の指は迷いなく、声はよく伸び、なるほどこれは売り物だと感心してしまう。


 当の老いたる鷲は、椅子の上でまったく身の置き所がない。歌が「鞍に置きたる白き髪」まで来たあたりで、その白き髪の持ち主は、湯呑を持つ手を膝へ下ろして、天井の隅を見ていた。


「……厩へは、行かんぞ」


「はい?」


「厩には荷馬しかおらん。軍馬は十年前に手放した」


「か、閣下。歌に、そういうことは」


「それに剣は、この夏まで錆びついて抜けなんだ」


 詩人が言葉に詰まる。私は横から茶を注ぎながら、申し上げた。


「本当ですのよ。この夏、武具のお商売の方が拝みにいらして、抜けずにお帰りになりましたの。……いまは研いでございますけれど、間に合いましたのは、つい先ごろですわ」


 ラインマルは、笑った。愛想笑いではなく、ちゃんと可笑しそうに。それから竪琴を膝に伏せて、正直な顔になる。


「……実を申しますと、庭先を通ってまいりましたときに、拝見してしまいまして」


「何を?」


「閣下が、腰を伸ばしていらっしゃるところを。……お膝に、土がついておいででした。歌の中の御方には、土はつきません」


 旦那様が、目を逸らす。


 商売人の目は、正直である。この男はいま、自分の売り物と目の前の実物との差額を、すっかり勘定してしまったのだ。


       ◇


 茶が二杯目に入った頃、私は詩人に尋ねてみた。歌い手というものの、暮らしの立て方をである。


 答えは、たいそう即物的だった。酒場の払いは席料の何割かで、祝いの宴は一晩いくら。新しい歌を仕込むには半年かかり、当たるのは五つに一つ。三十年歌われ続けている「不敗侯」は、この商売では年金のようなものだという。


「不敗侯の一節が入っていれば、どの町でも杯が上がります。……正直に申しまして、閣下の歌でわたくしどもは、冬を越しております。あのお歌が消えましたら、わたくしは弟子を三人、食わせられなくなりますな」


 なるほど、と私は思った。


 この歌の下には、思っていたより多くの人が座っている。北の抑止。若い者の胆。そしていま目の前で、歌い手の冬。……この三本の柱を蹴倒して手に入るものが「本当のところ」であるなら、私はそれを蹴倒す気には、どうしてもなれない。


 ――ここで、私は少し考えた。


 考えた時間は、たぶん湯呑ふたつぶんもなかったと思う。


 歌を剥がすことは、しない。剥がした先の本当のところは、そもそも売り物ではない。それは夏の夜に決めた。決めたはずである。


 けれど。


 いまこの人が本当にやっていることを、まだ誰も歌っていないのだ。


 胸の内から一枚を抜き出す気分である。……正直に申し上げると、少し惜しかった。三年ぶりに手に入れた、わたくしだけの持ち分なのだ。惜しくないわけがない。雷の夜に、この人が黙って蝋燭を寄せてくれたときから、私はこの独り占めが好きで好きで仕方がなかったのである。


 それでも、抜いた。


「詩人さま。ひとつ、新しいお話がございますのよ」


「――ほう」


「旦那様はいま、若い士官がたに、峠の越し方を教えておいでですの」


 弦を押さえていた指が、止まる。


「荷の目方。靴の乾かし方。引き返す日の決め方。……派手ではございませんわ。剣も抜きませんし、厩にも行きません。ですけれど、来年の冬は、峠で死ぬ方が減るかもしれませんの」


 私はもう一杯、茶を注いだ。


「歌うなら、そちらをどうぞ。……盛るなら、お若い方々のほうを盛ってくださいましな」


 ラインマルは、長いこと黙っていた。


 それから竪琴を置いて、深く息を吐く。


「奥方様。歌の種というものは、十年に一度しか落ちてまいりません」


「あら。では、拾い得ですわね」


「拾わせていただきます。……ただし、旧いお歌のほうは、そのまま歌わせていただきますよ。商売でございますので」


「もちろんですわ。あちらは王都の持ち物ですもの」


       ◇


 旦那様が、ふいに口を開いた。


「詩人。名は、出すな」


「は?」


「若い者らの名だ。関所詰めの三人。……名が歌に入ると、あれらの背が重くなる」


 それから、少し言い淀んで。


「あとは、家内の言うとおりにしてくれ」


 ――いま、この人は。


 私は湯呑を持ったまま、しばらく動けなかった。人前で、この人が、家内の言うとおりに、と言ったのである。三十年、誰の指図も受けずに峠を越えてきた人が。


 砦の石が、今度は外側へ向かって、ひとつ落ちる。


 この人は、私に譲ったのではない。いま初めて、他人の判断を人前で背負ったのである。三十年、誰にも背負わせず、誰の分も背負ってきた人が。


 帰り際、ラインマルが思い出したように振り返った。


「奥方様は、歌になりたくはございませんか。若き奥方が、伝説の武人を射止めた――これは、売れます」


「なりたくございませんわ」


「おや。なぜでございましょう?」


「歌になりますと、目減りいたしますもの」


 詩人は目を丸くして、それから声を立てて笑い、上機嫌で坂を下りていった。


       ◇


 その晩、私は胸の内をそっと覗いてみる。


 一枚、抜いたはずである。それなのに、薄くなった気がしない。……妙なものだ。帳場の道理では、出したものは減る。減らないのなら、それはそもそも帳簿に載る品ではなかったということになる。


 載らない品ばかりが増えていく。嫁いでからの半年、私の暮らしは、そういう具合にできているらしい。


 三日後、門前に馬が止まった。書状ではない。今度は、官服である。


 王都司令部から正式の要請が来る、という先触れであった。

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