16. 先妻の姉君
先触れが届いてから三日、屋敷は妙な静けさに包まれている。
ヘートヴィヒは銀器を磨き、磨いたそばからもう一度磨く。従士長は玄関の敷石まで掃いた。旦那様はといえば、朝から菜園で豆の枯れ蔓を三度片づけている。……この人の困り方は、いつも同じ形をしているのである。
イルムガルト様。先の奥様アンネリーゼ様の姉君で、伯爵未亡人。六十三。
「怖い方ですの?」
「……怖くはない。ただ、まっすぐだ」
まっすぐ、というのはこの人の語彙で、たぶん最上級の警戒である。
そして私はといえば――白状すると、その晩、寝台の中で受け答えの稽古をしていた。値踏みの客なら何人も捌いてきたのに、今度ばかりは口が動かない。あの方だけは、私の座る椅子がもともと誰の椅子だったかをご存じだからである。
◇
馬車から降りた老貴婦人は、なるほどまっすぐだった。背筋も、目も、口も。
挨拶もそこそこに椅子へ腰を下ろすなり、扇を開きもせずに仰ったのである。
「単刀直入に伺いますわ。あなた、あの子の座を、どうお使いになるおつもり?」
ヘートヴィヒの盆が、かたりと鳴った。旦那様が口を開きかける。私はその前に、膝の上で手を組んで申し上げる。
「使っておりませんわ」
「……使っていない?」
「あの席は、いまも庭の東屋に出しておりますの。三つ目の湯呑と、ご一緒に」
扇が、止まる。
「お命日には、三人分をお淹れいたしますのよ。この夏もそういたしましたし、来年もそういたしますわ。……ですから座は空いたまま。わたくしは別の椅子を勝手に一脚持ち込んで、そこに座っておりますだけですの」
老貴婦人は、たっぷり十を数えるほど私を見た。値踏みではない。もっと丁寧な、確かめる目だ。
「……見せていただけて?」
◇
秋の菜園は、終わりかけている。
豆の蔓は枯れ、薬草は刈り込まれ、花はもう茎だけになった。土は朝の霜を含んで黒く、刈り跡から薄荷の匂いが立っている。畝は、まっすぐではない。素人の手が十年、まっすぐでない畝をまっすぐに保とうとしてきた跡である。
イルムガルト様は、しゃがんだ。伯爵未亡人が、外套の裾を土につけたままである。皺の寄った指が結び目に触れた。
「……この結び方」
「旦那様ですわ。三度に一度、やり直しを命じられたと伺っておりますけれど」
「ええ。あの子、うるさかったもの」
それきり老貴婦人は、しばらく黙って畝を見ていた。風が枯れ蔓を鳴らす。私も黙って隣にしゃがんでいる。
畝の向こうの東屋へ、ふと姉君の目が止まる。卓に伏せた湯呑が三つ。ひとつだけ日に焼けた色が薄い。使う回数のいちばん少ない湯呑である。
姉君は、そちらへは行かない。行かずに、長いこと見ていた。
「あの子はね」
やがて、指を土から離して。
「閣下の歌を聞くたびに、『また育ってるわ』と舌打ちしていたのよ」
――ああ。
胸の底で、小さな音がした。この方はいま、いちばん値の張るものを無造作に置いていってくださったのだ。
「妹は、歌が嫌いだったのではないの。歌に夫を取られるのが嫌だったのよ。あの人の本当のところを知っているのは自分だけ、と思っていたかったの。……強欲な子でしたわ」
「まあ」
私は、思わず笑ってしまった。
「わたくしも、たいそう強欲ですのよ」
「……そうでしょうね」
老貴婦人が、初めて笑う。目尻の皺の寄り方が、三つ目の湯呑の持ち主と少し似ている。
◇
応接間へ戻ると、茶が支度されていた。
イルムガルト様は湯呑を手にして、ふいに旦那様のほうを向く。
「閣下。エルデ川のお話は、この方はご存じかしら?」
「……あれは、武勇ではない」
「あら。武勇でないほうが、面白いのですわ」
私が身を乗り出すと、姉君はにやりと笑う。口の悪さは、この家系の伝承であるらしい。
歌はこうである。若き日の不敗侯、橋を待たずに大河エルデを馬ごと渡る。流れは速く、馬は沈みかけ、それでも対岸に立った――。
「妹の婚礼の宴で歌わせましたのよ。花婿の武勇伝としてね。ところが当のご本人が、それはもう嫌そうなお顔をなさって」
「渡ったのは、事実だ」
「では、なぜお渡りに?」
旦那様は湯呑を置き、面倒くさそうに、けれど正直に答えた。
「対岸の村が、燃えておった」
いくさとは、関係がない。行軍の途中で川向こうに煙が上がったので、渡っただけである。着いた頃には火が回っていて、井戸の水を汲み出す列に加わり、朝までかかった。
「戦功簿には、載らん。ただの濡れ鼠だ」
「妹はね」
イルムガルト様が、湯呑の縁を指でなぞる。
「その話を聞いて、こう申しましたのよ。――濡れ鼠のほうが、よほど良い男だわ、と」
しばらく、誰も何も言わなかった。
目減りして、増える。いつもの手順である。ただ今日の増量分は、私の手が剥がしたものではない。会ったこともない先の奥様から、姉君を経て回ってきた。私がこの人を剥がすのに使う道具は、もとはあの方のものなのである。強欲な女がもう一人、あの東屋に座っていたわけだ。
「……あなた」
やがて姉君は、私を正面から見る。
「あなた、あの子と気が合いそうだわ」
◇
帰り際、玄関先である。
馬車の踏み台に足を掛けた姉君へ、旦那様がぼそりと仰った。
「……家内は、菜園の手が良い」
姉君の眉が、はっきりと上がる。廊下の奥で従士長が咳き込み、ヘートヴィヒは盆を取り落としかけた。
この人が、人前で、私を褒めたのである。
三十年褒められ慣れていない人は、褒めることにも慣れていない。だから出てくる言葉が「菜園の手」なのだ。器量でも気立てでもなく、土をいじる手つき。……この人の辞書では、たぶんいちばん高い褒め言葉である。
「まあ」
馬車の中から、扇の陰で老貴婦人が笑った。
「閣下。あなた、十年前より、ずいぶんお喋りにおなりね」
坂を下りていく車輪の音を、門の前で聞いた。今日、私はこの家で二人目の強欲な女として、正式に認めていただいたらしい。
――お預かりいたしますわ。
東屋の三つ目の湯呑に、心の中でそう申し上げた。
◇
同じ頃、王都の酒場では新しい歌が掛かり始めている。題は「不敗侯、北へ帰る」。老いた戦神がもう一度北の峠に立ち、国境の風を鎮める――そういう筋書きで、まだ誰も見ていない先のことを、詩人はもう歌ってしまっている。手拍子が起こり、杯が上がる。歌とは、望みのほうを先に歌う商売である。北の山奥の屋敷に、その音はまだ届かない。届くより先に、歌い手のほうが坂を上ってくる。




