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15. 峠の講義

 週に二度、北の山道を、若い馬が三頭上がってくる。


 ルートガー様と、その同僚のお二人。三人とも、冬の装具の実地調べという名目で北の関所詰めに出されている。関所からここまで、馬で一刻。非公式の講義であるから、誰の許しも出ていない。若い方々は非番の日に「遠乗りでございます」という顔で門をくぐり、帰りは決まって荷が増えている。


「奥様。あの方々、三人で鶏を一羽召し上がりますのよ」


「まあ。若い方は、そういうものですわ」


「わたくし、明日から二羽にいたします」


 家政婦長の目が、据わっている。


 書斎の卓には、いつもの大地図。三十年ぶん手擦れのした北の地図の上に置かれるのは、駒ではなく碁石だ。


 白が兵。黒が、荷。


「では、荷を捨てる順を言うてみよ」


 旦那様の声は、教える声である。低くて、静かで、少しだけ嬉しそうな声。私は末席で茶を注ぎ、碁石の盆を膝に抱えている。


「まず、予備の武具かと」


「よし。次は?」


「……天幕、でしょうか?」


「いかん。天幕を捨てた隊は、その晩に凍える」


 若い方々が、慌てて順番を組み替える。この人が最後まで捨てるなと言うものは、四つ。火の道具と、替えの靴下と、塩。それから、鍋である。


「鍋を捨てるな。鍋を捨てた隊は、翌朝、立てん」


 剣ではなく、鍋。初夏に錆びた飾り剣の前で伺った話が、こうして教室に出てくる。私は膝の上の黒石を、ひとつ握った。


 靴の乾かし方にも、流儀がある。濡れた靴を火に近づけると革が縮んで、翌日には足が潰れる。だから火から拳ふたつ離して置き、中に乾いた布を詰める。


「面倒だ。だが、面倒を惜しんだ者から、歩けなくなる」


 そして、いちばん大事な一項。


「引き返す日は、出る前に決めておけ。峠の上で決めると、必ず遅れる。……人は、登った分を惜しむ」


 私は、思わず口を挟んだ。


「まあ。それは、帳場でも同じですわ」


 三つの若い顔が、いっせいに末席を向く。


「損の切りどきは、儲かっている日に決めておきますの。損が出てから決めますと、必ず一日遅れますのよ」


「――そのとおりだ」


 旦那様が、深く頷いた。若い方々が、慌てて口の中でそれを繰り返す。私は少し得意になって、碁石の盆を抱え直す。


       ◇


 その日、とうとうあの峠の話が出た。


 三十年前の冬。吹雪。道を間違えて敵の背後へ出たこと。崩れたのが雪であったこと。歌の中では単騎千人退け。書斎の中では、撤退の手順書だ。


 白石が、地図の上を動く。遅い者を先頭に置く、と彼は言った。


「先頭は、いちばん遅い者だ。遅い者を後ろに置くと、隊が千切れる。千切れた尾から、凍える」


 荷を捨てた順。火を分けた順。靴を乾かした順。何刻に起こし、何刻に発ったか。三十年前の吹雪の夜が、白と黒の石で、卓の上に組み直されていく。


「……あの晩、わしが決めたのは、それだけだ」


 若い方々は、誰も口をきかない。ルートガー様が、白石をひとつ、無言で自分の側へ寄せる。


 碁石を片づけながら、私は伺った。


「旦那様。峠のとき、おいくつでいらしたの?」


「……二十三だ」


 手の中の白石が、ひとつ、盆の外へ落ちた。


「あら。――わたくしと、同い年」


 旦那様が、目を上げる。それきり、二人とも黙ってしまう。


 二十三の男が、吹雪の中で、部下の靴の乾かし方を決めていた。三十年前の峠に、私と同い年の人がいる。――そう思ったとたん、遠い歌だったはずの峠が、急に手の届くところへ来る。


 十九で帳場に座ったときのことを、私は思い出した。誰も助けてくれなかったのではない。助け方を知っている人が、いなかったのだ。


       ◇


 若鷲たちが帰ったあとの書斎は、やけに広い。


 灯をひとつ落として、私は茶を淹れ直した。旦那様は椅子の背に体を預け、疲れた顔で、けれど妙に満ちた顔で天井を見ている。


「……よい晩だ」


「はい」


「わしはな。ずっと、苦しかった」


 湯気の向こうで、私は手を止める。


「生き残ったのを、勝った顔で歌われるのが苦しかった。あの峠で、わしは何も勝っておらん。連れて帰っただけだ。……連れて帰れなんだ夜も、あるのに」


 暖炉の薪が、小さく爆ぜる。


「教えるのは、よい。生き残り方は、いくら盛っても、人を殺さん」


 この一行を言うために、この人は三十年、待っていたのだ。


 私は、返礼を一枚差し出す。


「わたくしの父は、歌になりませんでしたの」


 彼が、こちらを見る。


 オスターフェルト男爵は、商才も武勇もない人である。領地は小さく、父の代の借財があり、私が継いだときにはもう傾いていた。歌になる要素が、ひとつもない。


「けれど、雨の日には使用人を早く帰しましたの。濡れて帰ると風邪をひく、風邪は給金より高い、と。……それから、帳簿の隅に、家族の好物を書き込む癖がございましたわ。弟は杏。わたくしは、胡桃の焼き菓子」


 数字の列の隙間に、そういうものが挟まっている帳簿である。父が逝ったあと、私は三度読み返して、箱にしまった。


「わたくしの答え合わせは、父から始まりましたの。誰も歌いませんもの、あの人のことは。……わたくしが覚えておりませんと、どこにも残りませんの」


 言いながら、鼻の奥が、つん、とした。


 いけない、と思う。三年、この話は誰にもしていない。葬儀の翌朝から利息と相場を覚え、弟を育て、屋根の修繕を後回しにしてきた。泣く欄が、どこにもなかったのである。


 私はすっと立ち上がり、茶器を持つ。


「……お代わりを、お淹れしますわ」


 背中で、椅子の鳴る音がした。追ってはこない。この人は、追わない人である。


 しばらくして、低い声が言った。


「……急がず、ゆっくりでよい」


 それだけで、私は台所で、ひとつ息を整えることができた。


       ◇


 書斎へ戻ると、彼は地図を巻いているところである。


「若い者が、三人か。あと十年もすれば」


 いつもの口癖だ。あと十年もすれば、若い者が育つ。あと十年もすれば――この人はいつもそこで、自分の先を短く見積もる。


「あと十年もすれば、若い者が育つ。……いや」


 巻きかけの地図が、途中で止まった。


「いや、とは?」


「……十年と言うのは、癖でな」


 彼はそれきり口をつぐみ、地図を棚へ戻し、いつもより丁寧に灯を消した。


 砦の石が、ひとつ緩んだ。落ちてはいない。緩んだだけである。けれどこの人が自分の口癖につまずいたのは、今日が初めてだ。


       ◇


 翌朝、一通の先触れが届く。


 差出人の名を見て、ヘートヴィヒが盆を落としかけた。


「奥様。……イルムガルト様でございます」


「どちらさま?」


「先の奥様の、お姉上様でございます」

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