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13. 黙る旦那様

 旦那様が、黙っている。


 王都から帰って十日、屋敷はいつもどおりに回っている。朝は肩の支度、昼は庭、夕は書斎。夜の答え合わせも、これまでどおりに続いている。続いてはいるのだが、途中でこの人の目が、ふいにどこかへ行くのだ。


 庭に出ている時間が、目に見えて増えた。豆の支柱はもう結び直すところがなく、薬草の畝には抜く草もない。それでもこの人は鍬の柄を拭き、拭き終わると、山のほうを見て立っている。


「奥様。閣下は、この三日で鍬を四度お磨きになりました」


 薪を運ぶタンクレートが、通りすがりに小声で申し上げる。四度。刃こぼれの心配より、柄が痩せる心配をしたほうがよい回数である。


 問えば、たぶん答える。この人は問われれば嘘のつけない人で、私はその抜け道を、もう三月ばかり使い倒してきた。「旦那様、あれは何でございましたの」と一度伺えば、それで済む話である。


 私は、伺わないことにした。


 ――支払いの期限は、こちらが決めるものではございませんの。


 三年、帳場に座って覚えたことのひとつである。取り立てというものは、相手の懐を空にすることではない。相手が払える日を待つことだ。急かして取り上げれば、次がない。


 ……というのは、たぶん半分は言い訳である。


 残りの半分を、白状しておく。私は、待つのが怖い。


 父が倒れたのは三年前の早春の朝で、その前の晩、父は帳場で何か言いかけていた。麦の相場の帳を閉じて、それから、ジルヴィア、いつか話す――と。私は「はい」と答えた。その「はい」は、翌朝までしか使えない返事だったのである。


 葬儀の段取りを組みながら、私は父の言いかけた話の中身を、ずっと考えていた。借財のことかもしれない。母のことかもしれない。何でもない話だったのかもしれない。考えても、答えの出る勘定ではない。答えの出ない項目は帳の外へ置く、と決めて、私はそれきり置いてきた。


 いつか、は来ないことがある。


 だから私は、待つのが下手なのだ。それでも今日は待つ。待つと決めた。この人の期限は、この人が決める。


       ◇


 待つあいだにも、王都の余波は届く。


 戦記作家から、取材の申し込みが来た。壇上の不敗侯を見て、筆が鳴ったらしい。旦那様が実に困った顔をなさるので、お断りは私が引き受けた。使いの者に、口で持たせる。理由は、一行で足りる。


「本当のほうは、売り物ではございませんの」


「奥様、それだけでよろしいので?」


 ヘートヴィヒが目を丸くするので、私は使いを送り出しながら申し上げた。


「よろしいのですわ。値の付かないものは、お売りできませんもの」


 欠片のほうは、思いがけないところから渡ってくる。


 薪を積むタンクレートの手伝いをしていた午後である。老従士は薪を三本きれいに揃えて積んでから、いつもの折り目正しさで口を開いた。


「奥様。……補記でございます」


「まあ。本日は、どの歌の?」


「歌ではございません。元帥閣下の、お話の中身でございます」


 北の峠――オルベルン峠の関所で、若い士官の損耗が続いているのだという。戦ではない。冬の峠と、秋の霧と、期限つきの命令とで、人が減っていく。この三年、その数が増え続けている。


「閣下が三十年前に越えられた、あの峠でございます」


 薪の一本が、私の腕の中で、急にひどく重くなる。


       ◇


 その晩、私はいつもどおり茶を淹れ、いつもどおり歌を一曲、注文した。


 王都で仕入れた歌の在庫が、まだ残っている。宿場で聞いた「敵陣三日三晩の単騎駆け」。単騎で敵陣へ乗り込み、三日三晩暴れ回った、という豪気な一曲である。


「本日は、三日三晩を伺いたいのですけれど」


「……三日三晩は、本当だ」


「まあ。珍しゅうございますこと」


「霧でな。動けなんだのだ」


 目減りの中身は、いつもながら見事である。霧が濃すぎて、敵陣の只中で三日、岩陰に伏せていた。暴れるどころか、身動きひとつ取れない。


「では、そのあいだは何を?」


「数えておった。荷駄(にだ)の通る回数と、向きと、刻限を。……三日も伏せておると、麦の置き場が分かる」


 帰ってそれを伝え、奇襲で全部燃やし、囲みは戦わずに解けた。人を斬るより、麦の置き場を知るほうがよほど効く――と、この人は事も無げに言う。


 私は笑って、湯呑に手を伸ばした。伸ばした手が、途中で止まる。彼のほうの手が、先に止まっていたからである。


「……歌は、間違いを教えん」


「間違い、でございますか?」


「霧に入ったのは、わしの間違いだ。歌に残っておるのは、入ってからの三日だけよ。……歌は、霧の凌ぎ方も教えん。凌いだ者の顔しか、歌わん」


 湯呑を置く音が、やけに大きく響いた。


 それから――この人は、促されもしないのに、続けたのである。


 元帥の話。峠の関所。若い士官が減っていること。減り方が、三十年前と同じ形をしていること。そしてそこで歌われているのが、ほかならぬ自分の歌であること。


「わしの峠で、若い者が死んでおる」


 低い、低い声である。


 私は膝の上で手を組んで、その声を受け取った。待った甲斐があった、などと思う気には、とてもなれない。ただ、この人が期限の日に自分の足で払いに来てくれたことが、胸の奥で静かに温かい。


 ――間に合った。


 父のときは、間に合わなかったのである。あの晩の帳を閉じる手を、私は止められなかった。今夜は、止めずに済んだ。それだけの違いが、こんなにも大きい。


 私は湯呑を持ち上げ、冷めかけた茶を、ひと息に飲み干した。


       ◇


 同じ頃、王都の司令部の廊下では、参謀たちがすれ違いざまに言葉を交わしている。北の関所の報告書が、今月もまた積み上がった。峠の損耗は三年続いている。誰かが軽く言う。「不敗侯の歌に、もう一勝負させればよい。あの名が北にあるだけで、兵の腹は据わる」。若い参謀が口を開きかけ、腕の中の報告書の重さを思い出して、やめる。廊下の突き当たりでは、冬の装具の予算書が、三年目の据え置きのまま決裁を待っている。


       ◇


 数日後、門番が先触れを持ってきた。


 王都司令部の使者――あの若鷲、ルートガー様が、再び来られるという。


 先触れには、ひとつだけ余計なことが書き添えてあった。


 使者は、喪章(もしょう)をつけている、と。


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