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12/30

12. 生体展示はお断りですわ

 王都の空気には、値札の匂いがする。


 王都に入って十日。侯爵家の屋敷は十年閉めきりで、埃と虫と、押しかけてくる名刺との戦いに費やされる。


      ◇


 式典の日は、よく晴れた。王宮の大広間は天井が高すぎて、人の声が上のほうで迷子になる。生き残りの将たちが席次に従って並び、その一番奥に旦那様の席がある。隣に着いて五つ数えるうちに、ひとつ分かったことがあった。


 ここにいる方々は、旦那様を見ていない。「不敗侯」を見ている。歌が本当に歩くかどうかを、確かめている。


 視線は、値踏みの形をしていた。白髪はどれほどか。背は縮んだか。まだ剣を持てるか。――そして当然のように、隣の女の品定めも、勘定に入っている。


 扇が動く。扇の内側というものは、思ったよりよく響く。


「まあ、あの方が」


「後添えですって。三十も下だとか」


「財産目当てに決まっておりますわ」


「三年で逃げましてよ」


「いいえ。わたくしは半年と」


 私は、この手の話には強いはずである。実家の帳場では値切りも嫌味も朝の挨拶のうちで、陰口ごときで痛む皮は、三年前にとうに剥がれた。……そのはずなのである。


 ところが、「財産目当て」のところで、胸の底が、す、と冷えた。


 なぜ冷えたのかは、自分がよく知っている。


 ――利で参りましたのよ。


 あれは、嘘ではない。私は後見の判が欲しくて、この人のところへ来た。雨漏りのしない屋根と、弟の相続と、それだけを数えて馬車に乗った女である。扇の内側の方々は、根も葉もない話のおつもりで、根のほうだけは、きれいに当てている。


 当てられて冷えるということは、つまり――。


 そこから先を考えるのは、やめておく。場所が悪すぎる。


 隣で、低い音がした。


 旦那様の喉が、鳴りかけたのである。この人の怒りは、怒鳴らない。声が低くなるだけだ。それが広間で鳴れば、明日には新しい歌ができてしまう。


 私は扇を持った手を、そっと彼の膝の脇へ置く。


 置いただけである。それきり、低い音は出てこなかった。


       ◇


 やがて、進行役が名を呼んだ。


「アイヒェンヴァルト侯爵、バルタザール卿」


 広間が、静かになる。


 大男がゆっくりと壇へ上がる。段は三つ。三つ目で右膝がわずかに遅れたのに気づいたのは、たぶん私とタンクレートだけだ。


 壇上の旦那様は、大きかった。声は低く、言葉は短い。陛下への型どおりの言上と、和議三十年への型どおりの言葉。歌のような台詞は出てこない。広間の期待が、少しずつしぼんでいくのが分かる。


 そのしぼみ具合が、私にはたいそう可笑しい。皆さま、台本をお渡し忘れですわ。


 言上を終えて、彼が半歩下がる。そこで進行役が、余計なことを言った。


「――お連れの方を、ご紹介いただけますかな?」


 広間中の扇が、止まる。


 見世物の幕が、今度は私の側に上がったのである。心臓が、ひとつ大きく打つ。


 旦那様が私のほうを見て、それから広間へ向き直る。


「家内だ」


 それだけかと、誰かが息を吐きかける。その拍に。


「……わしの帳尻は、この人が握っておる。頼もしいぞ」


 一瞬の間があって、広間の後ろで誰かが噴き出した。それが伝染し、笑いが天井まで昇る。和議の祝典の堅苦しい大広間で、老いた戦神が、妻に家計を握られていると白状したのだ。


 笑いは、扇の内側の声を、きれいに割る。


 淑女の礼をしながら、俯いた顔の下で、私はたぶんひどい顔をしていた。


 この人はいま、私を「連れ」から出したのである。飾りでも、若い後添えでも、財産目当ての小娘でもなく――握る側に、置いた。三十年ぶんの視線が集まる壇の上で、いちばん短い言葉で。


 胸の底の冷えていたところへ、湯を注がれたようだった。


 壇を降りるとき、大きな手が、当たり前のように私の手を取る。広間がまたざわめく。私の指先は、まちがいなく熱くなっている。


「……転ばぬための、実務だ」


「はい。実務でございますわね」


「……うむ」


 実務の手は、汗ばんでいた。


       ◇


 人波が引いたころ、柱の陰から山のような老人が現れる。


「バルタザール! 貴様、まだ生きておったか?」


 元帥ヴァルデマール閣下である。御年七十、声は大砲。旦那様がこの日初めて、心底から嫌そうな顔をなさった。


「……声が大きい」


「大きゅうせねば貴様の耳に届かん歳だろうが。おい、奥方。この男は昔から、褒められると三歩下がる」


「存じておりますわ。褒めますと、庭へお逃げになりますの」


 元帥が大砲のような声で笑う。ひとしきり肩を叩き合ったあと、ふいに声を落とした。


「――戻る気は、ないか?」


 広間の音が、少し遠のいた気がする。


「北がな。関所が細っておる。貴様が座っておるだけで、変わるものがあるのだ」


 旦那様の返事は、短かった。


「……わしは、隠居だ」


 断りの口上でもなく、理屈でもない。ただ、それだけ。


 元帥は「そうか」と言って、また肩を叩いて笑い、話はそこで終わる。


 終わったのに、私はこの人の横顔から目を離せずにいた。断ったときの顔に、一瞬、影が差したのである。困惑でも、怒りでもない。もっと古くて、もっと言いにくいもの。


 その影がどこから来たのか、この時の私には読めない。


       ◇


 帰りの馬車で、私は本日の勘定を申し上げる。


「本日の歌は、いかほどでした?」


「……三割」


 窓の外の灯を見ながら、彼が言う。それから、少し考え直したらしい。


「いや。二割五分か」


「歌は、外で歌うものだ。本人が中におると、辻褄が合わん」


 私は声を立てて笑い、こちらも一枚返しておく。


「陰口のほうは、二割ほど当たっておりましたわ」


「……あれは、根も葉もない」


「根は、ございますのよ。わたくし、利で参りましたもの」


 彼がこちらを向く。何か言いかけ、言葉を探し、結局は探しあぐねた顔で、こう仰る。


「……助かった。あのとき、膝に……」


「嬉しかったですわ。でも、あのくらい大したことはないですわ」


 私はそっと彼の膝に手のひらを乗せた――。


「そうか……。あなたが押さえてくれねば、明日には新しい歌ができておった」


「ふふっ、新曲に私も登場してしまいますわ」


「出たかったか?」


「まさか! ふふっ」


「はっはっは」


 窓の外で、夜の街が流れていく。歌は歌のまま王都に置いて、実物はこうして隣に乗っている。今日の勘定は悪くない。


 ――そう思っていた矢先である。


 馬車が王都の外れにさしかかると、窓の外に広い暗がりが開けた。練兵場である。遅い時刻に篝火(かがりび)が灯り、若い声が号令を返している。


 旦那様が、そちらを見た。


 見たまま、黙る。


 私は声をかけなかった。かけられなかった、という方が近い。この人の沈黙には目方がある。今夜は、いつになく重い。


 馬車は北へ向かい、号令はやがて聞こえなくなる。旦那様は、それでもまだ、窓の外を見ておいでだった。

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