第2章 想い出のレモンパイ
あれから一週間。井の頭公園を吹き抜ける風は、少しだけ湿気を帯び、季節が梅雨へと向かっていることを告げていた。
あの秋田から来た青年——蓮という名だった——は、翌朝、すっきりとした顔で交番に挨拶に現れた。
「もう一度だけ、この街でもがいてみます。賢さんに、僕の歌を聴いてもらえる日まで」
そう言い残して去っていった彼の背中は、一週間前とは見違えるほどまっすぐだった。
「若者ってのは、きっかけ一つで化けるからなぁ」
交番のデスクで、田代が熱いお茶をすすりながらしみじみと呟く。
「ええ。僕も彼の歌が楽しみです」
「ま、お前が引き寄せるのは若者だけじゃないがな。ほら、噂をすれば……」
田代がアゴで入り口を示す。ガラス扉の向こうに、所在なげに佇む一人の老紳士の姿があった。仕立てのいいジャケットを着ているが、どこかひどく困惑した表情で、手に小さな白い箱を抱えている。
賢はすぐに立ち上がり、扉を開けて声をかけた。
「こんにちは。どうかされましたか?」
老紳士はハッとしたように賢を見つめ、それから絞り出すような声で言った。
「……あの、妻に、これを届けてほしいと言われまして。ですが、どうしても場所が思い出せないのです。私は、この街で育ったはずなのに……」
老紳士の名前は長谷川さん(72)。最近、物忘れが多くなり、今日はおめかしをして出かけたものの、目的地を見失ってしまったのだという。
賢は長谷川さんを交番の椅子に座らせ、温かい麦茶を出した。
「奥様へのお届け物ですか。素敵な箱ですね」
賢が優しく語りかけると、長谷川さんは膝の上の箱を愛おしそうに撫でた。
「今日が、結婚記念日でしてね。妻が『どうしてもあのお店の、レモンパイが食べたい』と言うものですから。私が若い頃、初めて彼女にプロポーズしたのも、その店だったんです。こもれびが綺麗に差し込む、静かな喫茶店で……」
しかし、長谷川さんがいくら思い出そうとしても、店名も場所も霧の彼方に消えてしまうようだった。ただ「吉祥寺にある」ということだけを頼りに、ここまで歩いてきてしまったらしい。
田代が横からそっと声を潜めて賢に言う。
「おい賢、吉祥寺でレモンパイが有名な古い喫茶店なんて、もうほとんど残ってないぞ。昔ながらの店はここ10年で随分潰れちまったからな……」
賢は少し考え、それから長谷川さんに微笑みかけた。
「長谷川さん、少しお散歩に行きませんか? 街を歩けば、思い出すキッカケがあるかもしれません」
賢が長谷川さんを連れて最初に向かったのは、やはりあの場所だった。
「珈琲・猫町」。
お昼時の喧騒が落ち着いた店内に、カランコロンと鈴の音が響く。カウンターの奥から顔を上げた桐子は、賢と、その隣で緊張した面持ちの長谷川さんを見て、すぐに察したように「いらっしゃい」と声をかけた。
「桐子さん、ちょっとお知恵を借りたくて。長谷川さんが、昔吉祥寺にあった『レモンパイの美味しい、こもれびの入る喫茶店』を探していらっしゃるんだ」
桐子は、長谷川さんが大切そうに抱えている白い箱に目を留めた。箱の隅には、色褪せた小さなロゴマークが印刷されている。
「……長谷川さん、その箱、もしかして『談話室・すずらん』のものじゃありませんか?」
桐子の言葉に、長谷川さんの目が大きく見開かれた。
「あ、ああ! そうです、『すずらん』だ! なぜ分かったのですか!?」
「うちの先代——私の祖父が、そのお店のマスターと仲が良かったんです。でも……」
桐子は少し胸を痛めるような表情で、賢を見つめた。
「『すずらん』は、5年前にマスターが亡くなって、お店を閉めてしまっているの。今はもう、別の服屋さんになってるわ」
長谷川さんの肩が、目に見えて落胆で小さくなった。
「そう、ですか……。閉まって、しまいましたか。妻に、あの味をもう一度だけ、食べさせてあげたかった……」
呆然とする長谷川さんの姿に、賢は胸を締め付けられるような思いがした。大きな事件ではない。けれど、このお年寄りの心の中にある、奥様への何十年分の愛情が、行き場をなくして泣いている。
その時、桐子がカウンターの奥から一冊の古びたノートを取り出してきた。
「長谷川さん、諦めないで。実は、うちの祖父が『すずらん』のマスターから、レモンパイのレシピを譲り受けていたんです。いつか復活させようって、ノートに書き残してあって」
桐子は賢を見て、サバサバとした、けれど最高に心強い笑みを浮かべた。
「賢さん、長谷川さんをここに座らせておいて。少し時間はかかるけど、私がそのレモンパイ、再現してみる」
「桐子さん……! ありがとう」
賢の心に、また一つ、やわらかな光が灯った。
一時間後。
オーブンから、甘酸っぱく、どこか香ばしい香りが店内に満ちていく。
桐子が運んできたのは、サクサクのパイ生地の上に、黄金色のレモンカスタード、そして真っ白なメレンゲが綺麗に泡立てられた、焼き立てのレモンパイだった。
長谷川さんは、そのパイを見た瞬間、目から涙を溢れさせた。
「これだ……この形、この香りです。あの人と初めて会った日の、あの匂いだ……」
長谷川さんは、震える手でフォークを持ち、一口食べた。
「おいしい……。ああ、美味しいなぁ……」
何度も頷く長谷川さんの姿を見て、桐子はホッとしたようにエプロンで手を拭いた。
賢はそんな桐子に近づき、心からの声をかける。
「本当にすごいよ、桐子さん。君はいつも、街の人の大切なものを守ってくれるんだね」
「……私はただ、メニューを再現しただけ。長谷川さんの話をちゃんと聞いて、ここに連れてきたのは賢さんでしょ」
桐子は少し耳を赤くして、ぷいと顔をそむけた。
「それに……困っている人を放っておけないあなたの力に、少しでもなりたかっただけだから」
最後の小さな呟きは、店内に流れるモダンジャズの音に消えてしまったが、その表情には、賢への隠しきれない温かい想いが溢れていた。もちろん、賢は「今日も桐子さんは優しいな」と、その本心には1ミリも気づいていないのだが。
夕方、賢は長谷川さんをパトカーで自宅まで送り届けた。
玄関先で待っていた奥様は、夫の姿を見るなり「あなた!」と駆け寄ってきた。
「もう、どこへ行っていたの? 心配したのよ」
「すまない、これを受け取ってほしくてね。……結婚記念日、おめでとう」
長谷川さんが差し出したレモンパイの箱を見て、奥様は息を呑み、それからすべてを理解したように、夫の裏返しのジャケットの襟を優しく直した。
「ありがとう、あなた。世界で一番嬉しいわ」
二人が手を繋いで家の中へ入っていくのを見送りながら、賢は深く息を吸い込んだ。
夕暮れの井の頭公園には、今日も長い影と、優しいこもれびが揺れている。
交番に戻ると、田代がニヤニヤしながら待っていた。
「お帰り、賢。長谷川さんの奥さん、喜んでたか?」
「はい。最高の笑顔でした」
「そうか。お前と桐子ちゃんがタッグを組めば、この街の悲しい事件はゼロになりそうだな。で、桐子ちゃんにちゃんとお礼は言ったんだろうな?」
「もちろんです! 今度、交番の予算が出たら、猫町で一番高い豆を買いに行きます」
「……はぁ。お前、本当にそっちの方面は『迷子』だな」
田代の深いタメ息の意味が分からず、賢は小首を傾げるのだった。
吉祥寺の街に、夜の帳が下りていく。
小さな交番の窓から漏れる光は、今夜も迷える誰かの足元を、静かに、そして温かく照らし続けている。




