最終章 こもれびの街
梅雨の晴れ間、吉祥寺の街は強い日差しに包まれていた。井の頭公園の緑はいっそう色濃くなり、蝉の鳴き声がかすかに混じり始めている。
「けんさん、これ、あげる!」
手作りの折り紙のメダルを差し出してきたのは、近所の保育園に通う元気な男の子だ。賢はいつものように目線を合わせるため、その場にしゃがみ込んだ。
「わあ、かっこいいメダルだね。ありがとう、大事に警察官の制服のポケットに入れておくよ」
「うん! けんさん、いつもパトロールかっこいいから!」
男の子が笑顔で走り去っていくのを見送りながら立ち上がると、腰のあたりでカチャリと装備品が鳴る。その様子を、交番の前で腕を組んで見ていた田代が、またいつものように目元を緩ませた。
「相変わらずチビっ子たちのヒーローだな、賢。そのうち『吉祥寺の歩くパワースポット』って街のガイドブックに載るんじゃねえか?」
「よしてくださいよ。でも、子供たちが安心して走り回れる街でありたいですよね」
そんな二人の穏やかな空気を破るように、交番の電話がけたたましく鳴り響いた。
田代が素早く受話器を取る。その表情が、一瞬で鋭い警察官のものに変わった。
「——はい、井の頭公園前交番、田代……。何だって? わかりました、すぐに向かわせます」
受話器を置いた田代が、賢を見る。
「賢、出番だ。吉祥寺駅近くの路地裏で、若い男が数人に囲まれて揉めてるらしい。通報によると、ギターケースを背負った男だそうだ」
「ギターケース……まさか、蓮くん!?」
賢の脳裏に、あの秋田から出てきた青年の顔が浮かんだ。
現場は、サンロード商店街から一本入った、飲食店が立ち並ぶ細い路地裏だった。
賢が駆けつけると、数人の派手な服装をした男たちが、一人の青年を壁際に追い詰めているのが見えた。やはり、あの蓮だ。彼は背中のギターケースをかばうように、必死に身を縮めていた。
「おい、ここでストリートライブやるなら、場所代が必要だって言ってんだよ。ルールだろ?」
「そんなの、聞いたことありません……! 僕はただ、ここで……」
男の一人が、蓮の胸ぐらを掴み上げようとした。
「そこまでです。警察です、手を離してください」
賢の、低く、しかしよく通る声が路地に響いた。
男たちはチッと舌打ちをして、賢を振り返る。
「なんだよ、お巡り。俺たちはこいつと話し合ってるだけだろ?」
「話し合いに、その乱暴な言葉や態度は必要ありません」
賢は男たちの前に一歩踏み出し、蓮を自分の背中に隠すように立たせた。その目は、いつも街の人に向けるやわらかな光とは違い、静かだが強い意志を宿している。
「この街には、この街のルールがあります。ですが、それはあなたたちが決める力任せのルールではありません。これ以上彼に付きまとうなら、恐喝罪として署まで同行してもらいます」
賢の気迫に押されたのか、男たちは互いに顔を見合わせ、
「……ケッ、シケた街だな。行くぞ」
と吐き捨て、路地の奥へと去っていった。
辺りに静けさが戻ると、賢はすぐに振り返り、蓮の肩に手を置いた。いつもの、あの温かい“けんさん”の目に戻っている。
「蓮くん、怪我はないですか? 怖かったですね」
「賢さん……。すみません、また迷惑をかけて。僕、ただ、自分の作った曲をここで聴いてもらいたくて……」
蓮は無事だったギターケースを抱きしめ、悔しそうに唇を噛んだ。
「迷惑なんて思っていませんよ。でも、怪我がなくて本当によかった。……少し、落ち着ける場所へ行きましょうか」
「珈琲・猫町」の奥のテーブル席。
桐子が運んできた冷たいレモネードを、蓮は一気に飲み干した。喉が鳴る音が、静かな店内に響く。
「ありがとうございます……。生き返りました」
「いいのよ。大変だったね」
桐子はそう言って、蓮の隣に座る賢に視線を向けた。賢の制服の袖が、少しだけ汚れている。
「賢さんも、お疲れ様。はい、これ」
桐子が手渡したのは、冷たいおしぼりだった。
「ありがとう、桐子さん」
賢がそれで腕の汚れを拭っていると、蓮がぽつり、ぽつりと話し始めた。
「あの後、アルバイトも見つかって、少しずつ曲も作れるようになったんです。今日、初めて新しい曲が完成したから、誰かに聴いてほしくて……つい、焦って、あんな場所でギターを出そうとしてしまいました」
「曲が、できたんですね」
賢は嬉しそうに目を輝かせた。
「はい。……あの時、賢さんが言ってくれたんです。『もう一晩だけ、この街の音を聴いてみませんか』って。その言葉を思い出しながら、吉祥寺の街を歩いていたら、自然とメロディが浮かんできて。タイトルは『こもれびの街』にしました」
蓮は少し照れくさそうに、でも誇らしそうに笑った。
「聴きたいな」
桐子が静かに言った。
「え……?」
「今、お店には他にお客さんもいないし。もしよかったら、ここでその曲、弾いてみてくれない? 賢さんも、聴きたいよね?」
「もちろん! ぜひ聴かせてほしいな」
賢が大きく頷くと、蓮の目に決意の光が宿った。
蓮は慎重にギターケースを開け、愛用のギターを取り出した。少し緊張した面持ちで調弦をし、深く息を吐く。
やがて、静かに指が弦を弾いた。
優しく、どこか切ないメロディ。それは、大都会の片隅で迷い、もがきながらも、小さな光を見つけて歩き出そうとする、蓮自身の物語そのものだった。
サビに入ると、彼の歌声は力強さを増していく。吉祥寺の街を行き交う人々の足音、井の頭公園の風の音、そして、あの時彼を救った温かい手のぬくもりが、音楽になって店内に満ちていくようだった。
カウンターの奥で、桐子はそっと目を閉じ、その歌声に耳を傾けていた。
そして賢は、まっすぐに蓮を見つめ、ただ温かく微笑んでいた。
曲が終わり、最後の残響が消える。
「……すごいです、蓮くん。胸がぎゅっと熱くなりました」
賢が心から拍手を送ると、桐子も「素敵な曲。この街が、あなたのことを歓迎してるみたい」と微笑んだ。
蓮はギターを抱きしめたまま、
「ありがとうございます。僕、この曲を持って、来週のライブハウスのオーディションに挑戦します。今度は、絶対に逃げません」
と、力強く宣言した。
夕方、交番への帰り道。
オレンジ色の夕日が、二人の影を長く伸ばしていた。
「蓮くんの曲、本当に良かったですね」
歩きながら話しかける賢に、隣を歩く桐子が「うん」と頷く。
「この街が、あの子の曲の中にちゃんと生きてた。……きっとね、あの子が一番表現したかったのは、あの夜、絶望してた自分を照らしてくれた、賢さんの光だと思うよ」
桐子は立ち止まり、賢の横顔を見つめた。
「誰に対しても、同じ光を向けること。それって、口で言うほど簡単じゃない。でも、賢さんはずっとそれを続けてる。……そういうところが、本当に……」
「え?」
賢が不思議そうに足を止め、桐子を見つめ返す。
桐子は、あと数センチが出ない自分の想いに、小さくため息をついた。
「……本当にかっこいい警察官だな、って言おうとしたの。ほら、行くよ。田代さんが首を長くして待ってる」
「あ、待ってよ、桐子さん!」
赤くなる顔を隠すように早足で歩く桐子の後ろを、賢は慌てて追いかける。
交番が見えてくると、入り口で田代が「遅いぞ二人とも! 肉まんが冷めちまうだろ!」と手を振っていた。
大きな事件は起きないけれど、ここには今日も、それぞれの歩幅で進む人々のドラマがある。
こもれびが優しく揺れる吉祥寺の街で、“けんさん”の物語は、これからもゆっくりと紡がれていく。
完




