第1章 吉祥寺のけんさん
こもれびのやわらかな光が、井の頭公園の青葉を透かして、古い交番の机を斑に染めていた。
吉祥寺。若者であふれる街であり、昔ながらの路地が残る街。
その境界線にあるこの小さな交番に、三枝賢の居場所はある。
「けんさん、ちょっといい?」
ガラス扉をガラガラと開けて顔を覗かせたのは、近所でクリーニング店を営むおばちゃんだった。手には、真新しい猫の首輪が握られている。
「どうしたんですか、おばちゃん」
「これね、公園のベンチに落ちてたの。ほら、この辺りに最近、片耳が欠けた野良猫がいるじゃない? あの子に誰かがつけようとしたのかしらって気になっちゃって」
賢はいつものように、相手の目線に合わせて少し腰を落とし、やわらかく微笑んだ。
「預かります。もし飼い主さんや、心当たりのある人が来たらすぐ分かりますから。気にかけてくれてありがとうございます」
「頼んだわよ、けんさん。あなたに言うと、なんだかホッとするわ」
おばちゃんが満足そうに去っていくのを見送りながら、賢が首輪を台帳に記録していると、奥からパイプ椅子がきしむ音がした。
「相変わらず、大繁盛だな、三枝巡査」
湯呑みを片手にニヤニヤしているのは、先輩の田代慎吾巡査部長だ。45歳、日に焼けたがっしりした体格に、誰もが泥棒と見紛うような(失礼ながら)豪快な髭を蓄えているが、その眼差しは誰よりも優しい。
「繁盛って言わないでくださいよ。でも、こういう小さな『気になること』が、この街の呼吸みたいなものですから」
「違いない。——ま、この街は賢がいないと回らないからな。俺はちょっと書類を本庁に届けてくる。留守は頼んだぞ」
田代はそう言って賢の肩をポンと叩き、パトロールがてら出かけていった。
午後二時。少し遅めの休憩をもらった賢は、交番から歩いて数分の路地裏にある老舗喫茶店「珈琲・猫町」のドアをくぐった。
カランコロン、と懐かしい真鍮の鈴が鳴る。
「いらっしゃい、賢さん。お疲れ様」
カウンターの奥から、落ち着いた声がした。店長の木村桐子(28歳)。
すっきりとまとめた髪に、深い緑色のエプロンがよく似合っている。彼女は賢の姿を見るなり、何も言わずにカウンターの端、いつもの「特等席」へ視線を向けた。そこにはすでに、おしぼりと一杯の冷たい水が置かれている。
「ありがとう、桐子さん。いつものブレンドを」
「はい。今日は少し外が暑いから、気持ちすっきりめに淹れるね」
桐子は手際よく豆を挽き、お湯を注ぎ始める。
賢は、彼女の無駄のない、しかし温かみのある所作を眺めるのが好きだった。
「さっきね、交番に猫の首輪が届いたんだ。片耳の欠けた野良猫のことで、クリーニングのおばちゃんが心配してて」
「ああ、あの子ね。最近、公園の池の近くで、若い男の子がよくしゃがみ込んでその猫を見てるよ。何か思い詰めたような顔をして」
桐子の言葉に、賢のアンテナがピクリと動く。彼女のサバサバとした観察眼は、時に街のどんな情報網よりも正確だった。
「男の子? どんな風に?」
「ギターケースを背負ってる。でも、弾くわけじゃなくて、ただ猫を見てるの。……はい、お待たせ」
差し出された珈琲からは、深く、どこか焦がしたような甘い香りが立ち上っていた。賢がそれを一口すすると、張り詰めていた肩の力がじわじわと解けていく。
「……美味しい。生き返るよ」
「よかった」
桐子は少しだけ目を細めて微笑んだ。その視線に、賢へのほのかな憧れや愛着が混ざっていることに、当の賢はまったく気づいていない。
「恋愛には百戦錬磨の刑事並みの勘があればいいのにね」と、田代からよくからかわれる理由がそこにあった。
「その男の子、ちょっと気になりますね。夕方のパトロールで、池の周りを見てみます」
「うん。無理はしないでね。あ、これ、おまけ」
桐子がそっと差し出したのは、小さな猫の形をしたクッキーだった。
夕暮れ時。井の頭公園の池は、オレンジ色と紫色の混ざり合った美しいグラデーションに染まっていた。
こもれびは影を長く伸ばし、波立つ水面をきらきらと輝かせている。
賢が歩いていると、ベンチに見覚えのある姿があった。背中に大きなギターケース。そして、その足元には、確かに右耳の先端が桜の花びらのように欠けた、サクラ耳の野良猫が丸くなっていた。
男の子は、じっと地面を見つめている。その背中は、ひどく小さく見えた。
賢は歩幅を緩め、足音を立てないように近づくと、あえて警察官としてではなく、一人の通りすがりとして声をかけた。
「可愛い猫ですよね。僕もよく見かけるんです」
男の子はびくっとして肩を揺らし、賢の制服を見て気まずそうに目をそらした。
「……すみません、何もしてないです」
「怒りに来たわけじゃないですよ」
賢は隣のベンチに腰を下ろした。
「ただ、君がとても優しい目をしてこの子を見ていたから。何か、お話でもしてたのかなって」
男の子はしばらく黙っていたが、賢の、誰に対しても同じように向けられる穏やかな光に気圧されたのか、ぽつり、ぽつりと話し始めた。
「……僕、ミュージシャンになりたくて、半年前、秋田からここに出てきたんです。吉祥寺のライブハウスに立つのが夢で。でも、オーディションは全部落ちて、バイトも人間関係がうまくいかなくてクビになって。……もう、実家に帰ろうかって思ってます。この街は、僕がいなくても何も変わらないから」
男の子の目から、一滴の涙がこぼれ落ちた。
賢は、静かに彼の話を聞いていた。否定もせず、安易な励ましもしない。ただ、そこに溢れる痛みを、こもれびのように静かに受け止める。
「君の言う通り、この街は大きくて、たくさんの人がいて、君一人がいなくなっても、明日は同じようにやってくるかもしれない」
賢はポケットから、昼間預かったあの猫の首輪を取り出した。
「でもね。この猫は、君がここにいたことを知ってる」
「え……?」
「この首輪、近所のおばちゃんが拾って届けてくれたんだ。『誰かがこの子につけようとしたのかも』って。……君がこの子のために用意したものじゃないですか?」
男の子は目を見開いた。
「この子は野良猫だけど、耳がこうして切れているのは、誰かが避妊手術をして、この街で生きていけるように見守っている証拠なんだ。君がこの子を気にしたように、街の人も君のことを見ている。……そして、僕も、君が今日ここにいてくれたことを、ちゃんと覚えましたよ」
賢は首輪を男の子の手にそっと握らせた。
「実家に帰るのが悪いことだとは思いません。でも、もし悔しさが残っているなら、もう一晩だけ、この街の音を聴いてみませんか。吉祥寺はね、迷った人が一休みするための場所でもあるんですよ」
男の子は首輪を強く握りしめ、やがて、声を殺して泣き出した。
足元の猫が、にゃあ、と小さく鳴いて、男の子のジーンズに頭を擦りつけた。
すっかり夜の帳が下りた交番。
田代が戻ってきて、お土産の肉まんを広げている。
「お、賢、なんかいい顔してるな。また街の迷子を一人、家に帰したか?」
「いえ。明日の朝、もう一度だけ吉祥寺の空気を吸ってから決める、と言ってくれました。ギターケースを、すごく大切そうに抱えて」
賢はそう言って、桐子にもらった猫クッキーをパクリと食べた。
「そうか。お前が向ける光は、派手じゃないが、一番あったかいな。お、桐子ちゃんのとこのクッキーか? 俺の分は?」
「あ、これ一つしかなくて……」
「ったく、相変わらずそこだけは鈍い奴だ」
田代が呆れたように笑う。
交番の窓の外では、吉祥寺の街の明かりが、星屑のようにきらめいている。
大きな事件は起きない。けれど、ここには確かに、小さな人生の岐路があり、それを静かに照らす光がある。
三枝賢は、明日もまた、この街の誰かのために、やわらかなこもれびのような微笑みを浮かべて立ち続けるのだろう。




