第9話:銀界の審判、砕け散る野望
北から吹き付ける風は、もはや春の残り香を完全に掻き消していた。
アルトリア王国の北端、ノルトヴァルト帝国との国境に位置する「双子狼の回廊」。切り立った崖に挟まれたこの狭隘な地が、王国の存亡を賭けた決戦の地となった。
地平線を埋め尽くすのは、帝国の象徴である黒鉄の鎧に身を包んだ精鋭騎士団。その数、およそ五万。対する我がアルトリア軍は、急ぎ集められた一万五千に過ぎない。
数的な劣勢は明らかだった。だが、わが軍の士気は異常なまでに高かった。なぜなら、その先頭に立つ人物が、彼らにとっての「不敗の象徴」であったからだ。
「全軍、停止! 陣を組み、聖魔導師殿の合図を待て!」
凛とした、しかし腹の底に響くような雄々しい声が戦場に響き渡る。
銀毛の駿馬に跨り、白銀の甲冑を纏って剣を抜くその姿は、かつての穏やかな王子アレクシス様ではない。一国の軍勢を率い、愛する者と国を守り抜こうとする、一人の偉大な将帥の姿だった。
私は、その隣に並んで馬を止めた。
私の装いは、戦場には不釣り合いなほど純白の魔道衣。手には、ヴォルフガング師匠から譲り受けたミスリルの杖。
風に舞う私の銀髪が、戦場の殺気と混じり合い、周囲の温度をじりじりと下げていく。
「エリアナ……準備はいいかい?」
アレクシス様が、短く私に問いかけた。その蒼い瞳には、私への絶対的な信頼と、これから始まる凄惨な戦いへの悲痛な覚悟が同居していた。
「ええ。アレクシス様。……彼らに教えなければなりません。アルトリアの土を踏むということが、どれほど重い罪であるかを」
私は杖を掲げた。
目の前には、黒い波のように押し寄せる帝国軍の先遣隊。彼らは、たった一人の少女が戦場の中央に立っているのを見て、嘲笑を浮かべていた。あるいは、皇帝の命じた「最高の兵器」という言葉を、ただの誇張だと思い込んでいたのかもしれない。
――その傲慢が、彼らの命取りとなった。
◇
「……来たれ、極夜の静寂。すべてを拒絶し、白銀に染め上げよ」
私の唇から漏れたのは、祈りでも呪文でもない。それは、世界を書き換えるための冷酷な命令だった。
瞬間、戦場に異変が起きた。
頭上の厚い雲が渦を巻き、太陽の光を完全に遮断したかと思うと、キラキラと輝く美しい結晶が空から舞い降りた。
「雪……? いや、これは――」
最前線の帝国兵が、その結晶の一つに触れた瞬間。
叫び声さえ上がらなかった。
結晶が触れた指先から、一瞬で青白い氷が広がり、腕を、肩を、そして胸を飲み込んでいく。
「『凍土の拒絶(Repulsa Perpetua)』」
杖を地面に突いた。
衝撃波のような冷気が地を這い、扇状に広がっていく。
ドォォォン、という重苦しい音と共に、地面が瞬く間に永久凍土へと変貌した。
走っていた帝国軍の馬たちの脚が、地面に縫い付けられる。兵士たちは慣性に逆らえず転倒し、そのまま凍り付いた大地と一体化していった。
それは、戦いと呼ぶにはあまりに一方的で、凄惨を極めた光景だった。
帝国軍の将軍たちが叫ぶ。
「怯むな! 魔法防御障壁を展開せよ! 火炎魔法で相殺しろ!」
数千人の魔術師が一斉に呪文を唱え、戦場を焼き尽くさんばかりの火球が放たれる。
だが、私の放つ冷気は、物理的な温度を超えた「意志」そのものだった。
迫りくる火球は、私の前で勢いを失い、シュウシュウと白い蒸気を上げて霧散していく。そして、その蒸気さえもが私の魔力に取り込まれ、さらに鋭い氷の礫となって帝国軍へと降り注いだ。
「あ、ああ……肺が、肺が……!」
極低温の空気は、兵士たちが呼吸をするたびにその内側から彼らを破壊した。
空気を吸い込めば肺の奥から凍りつき、血の流れが止まる。
広大な戦場に、雪のような白く輝く結晶が煌めくたび、数千、数万の命が物言わぬ彫像へと変わっていく。
「アレクシス様。……今です」
私の合図と共に、アレクシス様が剣を高く掲げた。
「アルトリアの勇士たちよ! 聖魔導師殿が道を作ってくださった! 侵略者に引導を渡せ!」
「「「おおおおお!!」」」
王国軍が一斉に突撃を開始した。
凍り付いた帝国兵は、もはや武器を構えることも、身を守ることもできない。彼らが手にする剣や槍が像に触れると、パキィィン、という、硝子が割れるような澄んだ音が戦場に幾重にも重なり、白く輝く破片が大地へと散らばった。
首を撥ねる必要も、心臓を貫く必要もなかった。ただ軽く叩くだけで、凍り付いた兵士たちは氷の像が砕かれるように崩れ落ちた。
かつての私は、血の匂いに怯えていた。
だが今の私は、返り血を浴びることさえない。
私の魔法は、血が流れることさえ許さず、生命の躍動そのものを凍結させ、無機物へと変えてしまうからだ。
「怪物だ……! 聖女などではない、あれは死神だ!」
帝国兵の間に、絶望という名の疫病が蔓延した。
彼らは自分たちが何を相手にしているのか、ようやく理解したのだ。
数、戦術、兵器――そんな次元ではない。
目の前にいる少女は、自然の摂理そのものを歪め、神の領域に等しい絶対的な死を振り撒いている。
三日。
大陸史に刻まれるはずだった「帝国によるアルトリア侵攻」は、僅か三日で終結した。
五万の精鋭のうち、生きて国境を越えられた者は一割に満たなかったという。
大地には、砕け散った鎧の破片と、溶けることのない氷の粒だけが残された。
◇
戦いが終わり、静寂が戻った回廊。
私は血の一滴もついていない白の魔道衣を翻し、馬を降りた。
王国側の犠牲者は驚くほど少なかった。前線で剣を振るう必要さえほとんどなく、ただ凍り付いた像を「片付ける」作業に終始したからだ。
王国兵たちは、私を見る目に、かつての親しみ以上のものを宿らせていた。
それは畏怖。神に近い存在への、根源的な恐怖。
アレクシス様だけが、私の隣に歩み寄り、震える手で私の肩を抱き寄せた。
「……終わったよ、エリアナ。君が……君一人が、この国を救ったんだ」
「いいえ。……私をここまで運んでくださったのは、アレクシス様。あなたの軍勢です」
私は事も無げに答えた。
だが、私の心はどこか凪いでいた。
三日間、私は冷静に、淡々と、数万の命を氷へと変えた。かつてヴィクトリアを断罪した時の激しい感情さえ、そこにはなかった。
ただ、邪魔なものを排除する。
ヴォルフガング師匠が私に授けた「冷徹な意志」が、私の核を完全に支配していた。
その静けさが、少しだけ、恐ろしかった。
◇
王都アルトリウムへの凱旋は、建国以来最大の熱狂に包まれた。
民衆は私を「救国の女神」と呼び、道には私の髪と同じ銀色の花びらが撒かれた。
国王陛下は涙を流して私を迎え、王太子フリードリヒ殿下もまた、私の前に深く頭を下げた。
しかし、勝利の祝杯の裏で、王宮の会議室には重苦しい空気が漂っていた。
情報部がもたらした報告は、決して楽観できるものではなかったからだ。
「帝国皇帝は、今回の敗北を『技術的な不備』と断じたようだ。……彼は、エリアナ殿の魔法をさらに危険視している。次に狙ってくるのは、軍勢による侵攻ではなく、より陰湿で、より強大な『対・聖魔導師用』の禁忌魔法、あるいは暗殺部隊の投入だろう」
フリードリヒ王太子が地図を指しながら言う。
アレクシス様が、拳を机に叩きつけた。
「一度の敗北で懲りないというのか! あれほどの犠牲を出しておきながら!」
「帝国にとって、兵士は消耗品に過ぎないのでしょう」
私は静かに口を開いた。
「皇帝が欲しているのは、大陸の均衡を崩すほどの絶対的な力。……つまり、私自身。私が生きている限り、帝国はこの国を狙い続ける。それは、もう変えられない決定事項なのですわ」
会議室に沈黙が落ちる。
誰もが、一人の少女に国の運命を背負わせているという重圧に、耐えきれない表情を浮かべていた。
もしエリアナを差し出せば、平和が来るのではないか。
そんな考えが、一瞬でも誰かの脳裏を掠めたかもしれない。
だが、私はその重い空気を切り裂くように、ふっと微笑んで見せた。
その微笑みは、十五歳の少女らしい可憐さを持ちながら、その瞳の奥には底知れない冷たさが同居していた。
「……構いませんわ。狙いたければ、何度でも狙えばいい」
私は椅子から立ち上がり、窓の外、北の空を見上げた。
遠く、ノルトヴァルトの銀嶺が、私を呼んでいるような気がした。
「帝国が私を『王国の死神』と呼ぼうと、後世に『凍てつく厄災』と語り継ごうと、知ったことではありません。……私がこの杖を掲げるたび、彼らは思い知るでしょう。アルトリアの土を一歩でも踏めば、そこが彼らの墓場になるということを」
私はアレクシス様の方を向き、優しく彼の手を握った。
「アレクシス様。……私は、あなたとこの国を守るためなら、何度でも世界を凍らせてみせます。それが私の、魔術師としての『意志』ですから」
その言葉に、アレクシス様は一瞬息を呑み、やがてすべてを受け入れたように力強く微笑み返した。
「ああ。……僕も、君の隣でどこまでも戦い続けよう。たとえ世界中が君を恐れても、僕だけは君の味方だ」
王都の夜空には、勝利を祝う花火が上がっていた。
だが、その光は、私の瞳に宿る白銀の輝きには、遠く及ばない。
帝国では、この戦いを経て、私の名を呼ぶことさえ忌み嫌われるようになったという。
彼らが震える声で語り継ぐ、王国の守護者の名。
――「アルトリアの氷霧の魔女」。
その二つ名こそが、これからの私に相応しい。
平和を謳歌する慈母の顔と、侵略者を粉砕する魔女の顔。
私はその両方を抱えながら、愛する人と共に、激動の時代を歩んでいく。
雪が、また降り始めていた。
私の周囲だけを、優しく、そして冷酷に包み込むように。
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