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氷霧の令嬢 ~ 放逐された少女の復讐譚 ~  作者: 鍼野ひびき


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第10話:白銀の約束、果てなき春の調べ

 あの大戦から、五年という歳月が流れた。

 帝国軍五万を氷の藻屑とした「双子狼の回廊」の戦いは、今や大陸全土の教科書に載る伝説となり、ノルトヴァルト帝国はあの日を境にアルトリア王国との間に不可侵条約を締結した。私の力――「アルトリアの氷霧の魔女」という名の、あまりにも巨大で一方的な抑止力が、皮肉にもこの地に永きにわたる平穏をもたらしたのである。


 ◇


 現在の私は、王都アルトリウムの南側に位置する「アレクシス公爵邸」で暮らしている。かつてのグランディア公爵領を再編し、アレクシス様が心血を注いで復興させたこの地は、今や王国で最も豊かな実りをもたらす穀倉地帯へと生まれ変わった。


「エリアナ、あまり無理をしないで。医務官も、今は安静にしているべきだと言っていたはずだよ」


 バルコニーで初夏の風を受けていた私に、背後から柔らかな声がかけられた。

 振り返ると、そこには公務を終えたばかりのアレクシス様が、心配そうな、それでいてこの上なく慈しみに満ちた瞳で私を見つめていた。


 彼は私の肩に薄手のショールをかけ、その大きな手で、私の大きく膨らんだお腹にそっと触れた。


「大丈夫ですわ、アレクシス様。この子は、あなたに似てとても元気なようです。時折、中から元気よく蹴り飛ばされますのよ」


「……それは楽しみだ。でも、君の魔力を吸い取りすぎていないかい? 聖魔導師の子供となれば、生まれながらに吹雪を呼ぶのではないかと少し心配だよ」


 アレクシス様が冗談めかして笑う。

 私は彼の胸に頭を預け、穏やかな王都の景色を眺めた。


 復讐に燃えていた十二歳の頃、あるいは極寒の森で孤独に魔法を練り上げていた十五歳の頃。私は、自分がこんなにも穏やかな光の中で、愛する人の子供を宿す日が来るなんて、想像さえしていなかった。


 今の私は、王立魔法学院の教授職を一時休職している。けれど、教え子たちは頻繁に邸を訪ねてきてくれるし、私が開発した治癒魔法の術式は、今や王国のすべての病院で数えきれないほどの命を救っている。

 私がかつて「破壊」のために磨いた力は、今や「再生」の象徴となっていた。


「……ねえ、アレクシス様。この子の名前、もう決められました?」


「ああ。男の子なら、君のおじい様から一字もらいたいと思っている。女の子なら……君の髪のように美しい、銀の月を連想させる名前がいい。けれど、最後は君に決めてほしいんだ、エリアナ」


 その言葉に、私の心がじんわりと温かくなる。

 三年前のあの大戦後、帝国との交渉や王位継承の儀など、アレクシス様は休む暇もなく忙しく働いていた。それでも、彼は決して私を独りにせず、私の魔法で心が磨り減ることがないよう、いつも側で寄り添ってくれた。


 彼こそが、私の凍てついた心を溶かし、人としての温もりを繋ぎ止めてくれた、本当の魔法だった。


 ◇


 幸福の絶頂にいたある夜、私は不思議な夢を見た。

 冷たく、けれど澄み切った霧の奥から、私を呼ぶ声が聞こえた。

 灰色の瞳に、不機嫌そうな低い声。

 私は、自分が無意識のうちにミスリルの杖を手に取り、北の空を見つめていることに気づいた。


「アレクシス様。……師匠のところへ行かなくてはなりません」


 真夜中の寝室。アレクシス様は、私の決然とした瞳を見て、反対の言葉を飲み込んだ。


「……分かった。でも、僕も一緒に行くよ。今の君の体では、あのアイスベルク卿も許さないだろうから」


 翌朝。私たちは極秘裏に王都を発ち、再びノルトヴァルトの銀嶺へと向かった。

 五年前よりもさらに深く、さらに重い霧が、かつての修行の地を包んでいた。

 館へと続く道は、私の魔力に呼応して、かつてのように静かに左右へと開いていった。


 石造りの館。そこは、五年前と何も変わっていなかった。

 けれど、暖炉の火は消えかけており、書庫の椅子に座る一人の男の背中には、隠しようのない死の影が漂っていた。


「……遅いぞ、エリアナ。身重の体で、こんな雪山まで来るとは、相変わらず無鉄砲な弟子だ」


 ヴォルフガング師匠は、椅子に座ったまま、私を振り返ることなく言った。

 その声は以前よりもかすれ、魔力の発露も細くなっている。


 私はアレクシス様の助けを借りて彼の側に寄り、そっとその痩せた肩に触れた。


「師匠……。また、不摂生をなさっていたのですか?」


「ふん。魔術師の死に際など、不摂生も摂生もない。……ただ、最後にお前の面を拝みたくなっただけだ」


 師匠はようやく私の方を向き、その灰色の瞳で私の大きくなったお腹を、そして私の顔をじっと見つめた。

 かつての鋭い光は消え、そこには一人の老いた賢者の、深い慈愛の色が宿っていた。


「……良い顔になった。もはや、復讐の汚れた魔力も、戦場の殺気も微塵も感じさせん。……お前が望んでいた『光』は、ようやくその手に収まったようだな」


「はい。師匠に鍛えていただいたからこそ、私はこの光を見つけることができました」


 私は師匠の手を握った。冷たく、震える手。

 彼は私の手を握り返し、隣に立つアレクシス様を仰ぎ見た。


「……公爵よ。エリアナを任せたぞ。この娘は、世界を凍らせる力を持つが、その心は誰よりも脆く、美しい。……彼女を一人にさせるな」


「約束します、アイスベルク卿。……私の命に代えても」


 アレクシス様の力強い言葉に、師匠は満足げに目を細めた。

 そして、彼は震える手で懐から一本の古い羊皮紙を取り出し、私に手渡した。


「……エリアナ。これは、私が生涯をかけて研究してきた『究極の治癒術式』の未完成品だ。……私には、これを完成させるための『光』が足りなかった。……お前なら、これを完成させ、数千年の呪いさえも解くことができるだろう」


「師匠……。これを、私に?」


「持っていけ。……魔術師に遺言など不要だが、これだけは言っておく。……エリアナ、お前は私の誇りだ。……極夜の森で見つけた、たった一輪の、枯れることのない白銀の花だ」


 師匠の手から力が抜け、その重さが私の掌に静かに移っていった。

 私は彼の胸に耳を澄ませた。もはや、そこに音はなかった。


 外では、今まで見たこともないような美しいオーロラが、館を包み込んでいた。

 ノルトヴァルトの氷の王が、その生涯を終えた瞬間。


 私は、彼の最期を見届け、涙を流しながら、彼が遺した術式を胸に抱いた。


 師匠。

 あなたが私に与えてくれたのは、力だけではありませんでした。

 冷たさの中に潜む優しさと、暗闇の中でこそ輝く意志。

 私はそれを、これから生まれてくる子供に、そしてこの国の未来に、語り継いでいきます。


 ◇


 ノルトヴァルトから戻り、季節が秋へと移り変わる頃。

 アレクシス公爵邸に、高らかな赤子の産声が響き渡った。


 銀色の産毛を纏い、アレクシス様と同じ蒼い瞳を持った、愛らしい女の子。

 彼女が生まれた瞬間、私の周囲の空気がキラキラと輝き、部屋中に小さな銀の結晶が舞った。それは、この子が受け継いだ偉大な魔力の片鱗であり、世界を祝福する光だった。


「……ルナ。ルナ・エリア・フォン・アルトリア。……美しい名前だね、エリアナ」


 アレクシス様が、生まれたばかりの娘を抱きしめ、私に微笑みかける。

 私は疲労の中にありながら、この上ない幸福感に包まれていた。


 私の人生は、一度は絶望に叩き落とされ、氷の牢獄に閉じ込められた。けれど、そこから這い上がり、自分の手で勝ち取ったこの平穏こそが、私の魔術の最高傑作なのだ。


 ◇


 数ヶ月後。

 私は、師匠が遺した未完成の術式を、ようやく完成させていた。

 それは、単に傷を癒すだけでなく、魂に刻まれた深い絶望や憎悪を浄化し、前を向く力を与える「救済」の魔法。


 この術式を完成させた日、私はルナを腕に抱いたまま長く考えていた。

 かつて私を地獄へ突き落とした者さえも、苦しみの底で呪いのように縛られたまま生きているとしたら、その重さを溶かすことこそが、この魔法の本当の使い道ではないかと。


 私はその魔法を、王立魔法学院の学生たちに教えるのではなく、大陸中の教会や病院に広く公開することを決めた。魔法は独占するものではなく、分かち合うことで真の価値を持つのだと、私は今の人生で学んだからだ。


 そして。

 私は、かつての「宿敵」であったヴィクトリア・フォン・グランディアが幽閉されている、王都外れの修道院を訪れた。


 かつての傲慢な美しさは消え、修道服に身を包み、一日中祈りを捧げている彼女。

 彼女は私を見ると、驚きと、そして隠しようのない怯えを見せた。


「……復讐に来たの? 聖魔導師様」


「いいえ。……あなたを許しに来ました、ヴィクトリア」


 私は、彼女の手をそっと取り、新しく完成させた魔法を放った。

 白銀の光が彼女を包み、彼女の瞳から、長く、淀んだ涙が溢れ出した。

 それは、彼女が抱き続けてきた歪んだ嫉妬や、名誉への執着という名の呪いが、溶けて消えていく瞬間だった。


「……私は、あなたを恨んでいません。……今の私が幸せなのは、あの日、あなたが私を突き放してくれたおかげでもあるのだから」


 ヴィクトリアは、私の手の中で、声を上げて泣いた。

 それは、彼女が他の誰の前でも決して口にすることのなかった、「後悔」と「謝罪」の涙だった。


 私は、自分の手で過去を完全に清算し、修道院を後にした。


 ◇


 さらに十数年の歳月が流れた。

 アルトリア王国は、かつてない繁栄の時代を迎えていた。

 フリードリヒ国王陛下の慈愛ある治世の下、王国は近隣諸国との平和を維持し、魔法と技術が共存する理想的な国家となっていた。


 私は、王立魔法学院の「名誉総長」として、今も教壇に立ち続けている。

 私の横には、成長して美しい銀髪の乙女となったルナが、私の助手を務めてくれている。彼女は、私以上の魔法の才を見せ、今では「月の聖女」として人々から慕われる存在になっていた。


「お母様! また魔法の術式を改良されたのですか? これでは、私たちが追いつく暇もありませんわ」


「ふふ、魔法に完成はないのよ、ルナ。……師匠が仰っていたわ。魔法は意志の力。あなたの意志が強ければ強いほど、魔法はどこまでも進化し続けるの」


 学院の中庭。

 そこには、かつての私のように、未来に胸を膨らませる多くの若き魔術師たちが集まっている。彼らの笑顔を見るたび、私は自分が戦い抜いてきた意味を再確認する。


 夕暮れ時。

 私は、公爵として、そして良き夫として常に私を支え続けてくれたアレクシス様と共に、丘の上のテラスに座っていた。


「……見てください、アレクシス様。王都に灯が点り始めました。……あんなに綺麗」


「ああ。……君が守り抜いた、平和の灯火だ。……エリアナ。君と出会えて、君の夫になれて、僕は世界で一番の幸せ者だよ」


 アレクシス様が私の肩を抱き、私たちは沈みゆく夕日を見つめた。


 私の髪は少しずつ白くなり、かつてのような力強い魔力の昂りも少なくなったかもしれない。けれど、私の心の中にある白銀の光は、あの日よりもずっと大きく、優しく、世界を照らしている。


 ふと、北の方角から、心地よい冷たい風が吹き抜けた。

 それは、まるでヴォルフガング師匠が「よくやった」と私を褒めてくれているかのような、懐かしい風。


 私は、空に向かってそっと杖を掲げた。

 夜の帳が降りる中、アルトリアの空に、一筋の美しい銀色の光が走った。

 それは、誰をも傷つけない、ただ明日への希望を告げるための「奇跡」。


 かつて、すべてを失った少女が、雪の中で手に入れた力。

 それは今、この国のすべての子供たちの夢を守る、不滅の盾となった。


 ――私の物語は、ここで一旦の幕を下ろす。

 けれど、私が遺した光は、これから何百年、何千年も、アルトリアの民の心の中に灯り続けることだろう。


 絶望の底にいても、凍てつく闇の中にいても、必ず朝は来る。

 それを信じ、意志を貫き通した少女の調べは、永遠にこの地に響き渡る。


 白銀の約束とは、過去から未来へと繋がれる、終わりのない愛の魔法なのだ。


お読みくださり有難うございます!!

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