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氷霧の令嬢 ~ 放逐された少女の復讐譚 ~  作者: 鍼野ひびき


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第6話:春の凱旋、凍解の絆

 復讐の劇が幕を閉じ、王立学院の大講堂に静寂が戻った後も、私の戦いは終わっていなかった。

 ヴィクトリアが仕組んだ毒は、国王カールの生命力を着実に蝕んでいたからだ。


「陛下、失礼いたします」


 王城の深奥、重厚なカーテンが引かれた寝室。

 私は、アレクシス様とグレゴールが見守る中、国王の寝台の傍らに跪いた。

 かつて威厳に満ちていた国王の顔は土気色で、呼吸は浅い。


 私は、ミスリルの杖を両手で包み込むように持ち、内なる魔力を静かに練り上げた。

 これまでのように「破壊」や「拒絶」のために使ってきた力ではない。

 ノルトヴァルトの極寒を耐え抜いた末に辿り着いた、生命の根源を揺り動かすような、澄み切った水と光の融合。


「……『銀清の加護』」


 杖の先から、粉雪のような青白い光の粒が溢れ出し、陛下を包み込んでいく。

 ヴィクトリアが盛っていた毒は、魔力を媒介にして体内にへばりつく陰湿なものだった。私はそれを、極小の氷の刃で削ぎ落とし、同時に光の魔力で傷ついた細胞を活性化させていく。


 一時間、二時間……。

 額に汗が滲み、魔力の消耗で視界が揺れる。

 だが、アレクシス様が私の背中にそっと手を置いてくれた。


「エリアナ、無理はしないで」


「……大丈夫です。私は、陛下に謝らなければならないことがたくさんありますから。生きて、私の話を聞いていただかなくては」


 数日間にわたる治療の末、陛下の顔に赤みが戻り、その瞳に理性の光が宿った。


「……エリアナ、か。其方に……すまぬことをした。私の不明が、この国を……其方を、地獄へ追いやった」


「陛下、もう結構です。今は、お体をお休めください」


 私は微笑み、最後の一節を唱えた。

 国王の快癒。

 それは、私の無実が完全に証明され、アルトリア王国が正常な姿を取り戻すための最後の鍵だった。


 陛下が自ら公務を執れるまでに回復されたある日。

 私は、謁見の間で一つの願いを口にした。


「陛下。……私を、ヴェルナー領へ帰らせていただけないでしょうか」


「当然の願いだ。其方がどれほど家族を、故郷を想っていたか、私は想像することしかできぬ。……すぐに早馬を出せ。エリアナ・フォン・ヴェルナーが、名誉と共に帰還すると、ヴェルナーの民に告げるのだ」


 陛下は一度言葉を切り、静かに続けた。

「此度の件で其方に多くを求めることは憚られるが……我が王国の『聖魔導師』としての申し出は、今も変わらぬ。帰郷の後、その心が固まった時に、改めて聞かせてほしい」


「……ありがとうございます、陛下。必ずお返事をいたします」


 陛下の力強い言葉を受け、私は深く、深く頭を下げた。

 三年前、罪人としてこの場所を去った時、私は二度とこの床を踏むことはないと思っていた。あの日、私の背に突き刺さったのは冷笑と嘲りの視線だったが、今は違う。謁見の間に並ぶ家臣たちの目は、敬意と、そして大きな贖罪の念に満ちていた。


「アレクシス、其方も共に行きたいであろうが、今はヴィクトリアたちの処遇と、乱れた国政の立て直しに其方の力が必要だ。エリアナには、しばしの休息を与えてやれ」


「……御意にございます、父上」


 アレクシス様は、名残惜しそうに私を見つめながらも、凛とした態度で応えた。彼は、私が「エリアナ」として家族と向き合う時間を尊重してくれたのだ。


「エリアナ、君の故郷で、君の心が本当の意味で癒えるのを待っているよ。王都のことは僕に任せてほしい」


 彼の差し出した手を、私はそっと握り返した。ノルトヴァルトの氷をも溶かすような、温かな約束だった。


 ◇


 翌朝、王都の城門には、一台の馬車が用意されていた。

 かつて私を地獄へと運んだ、窓のない黒い馬車ではない。ヴェルナー家の家紋――「盾と水鳥」が刻まれた、気品ある白塗りの馬車だ。


「お嬢様、準備が整いました。……さあ、参りましょう」


 御者台からグレゴールが誇らしげに声をかける。そして、馬車の扉を開けて待っていたのは、涙で目を赤く腫らしたアンナだった。


「お嬢様、私……またお供させていただけるなんて、夢のようですわ」


「アンナ、泣かないで。これから故郷へ帰るおめでたい日なんだから」


 私は彼女の手を取り、馬車へと乗り込んだ。王都の喧騒が遠ざかり、馬車の揺れが心地よいリズムを刻み始める。


 王都からヴェルナー領までは、馬車で一週間の道のりだ。

 道中、私は窓の外を飽きることなく眺めていた。南下するにつれて、アルトリアの春は深まっていく。街道沿いに咲く名もなき野花や、若葉を揺らす風。それらすべてが、三年前には見ることのできなかった「自由」の証だった。


 アンナは、私がいなかった三年間、王都の片隅でどのように過ごしていたかを語ってくれた。ヴェルナー家の縁者を頼りながらも、私がいつか戻ってくると信じて、毎日教会の聖母像に祈りを捧げていたという。


「お嬢様が戻られたと聞いた時、私は腰が抜けてしまいましたのよ。でも、あの凛々しいお姿を見て……ああ、お嬢様は強くなられたのだと、胸がいっぱいになりました」


 彼女の飾らない言葉に、私の凍てついていた心の端が、少しずつ解けていくのを感じた。


 ◇


 七日目の昼下がり。

 懐かしい石造りの橋が見え、空気が領地特有の、潤いを含んだ柔らかなものに変わった。

 ヴェルナー伯爵領の境界だ。


 そこで私を待っていた光景に、私は思わず息を呑んだ。


「お嬢様! エリアナお姉様!」


 街道の両脇を埋め尽くしていたのは、何百人という領民たちだった。

 早馬の知らせを聞き、彼らは仕事を放り出して集まってくれたのだろう。誰もが手には花や旗を持ち、私の帰還を祝福する声を上げている。


「おかえりなさい、エリアナ様!」

「信じていたぞ! ヴェルナーの誇りだ!」


 馬車が速度を落とすと、一人の少女が駆け寄ってきた。幼馴染のマリアだ。彼女は泥のついた手で、摘みたての小さな花束を差し出した。


「お姉様……! ずっと、ずっと待ってたの! 悪い人たちが何を言っても、お姉様がそんなことするはずないって、みんなで言ってたんだよ!」


「マリア……有難う」


 私は馬車の窓から身を乗り出し、彼女の花束を受け取った。その隣には、教会のトーマス神父が穏やかな笑みを浮かべて立っていた。


「エリアナ様。主は貴女の苦難を見捨てられなかった。この地にお戻りいただけたこと、心より感謝いたします」


 神父の瞳からも、静かに涙がこぼれていた。


 領民たちの温かな歓声に包まれながら、馬車はゆっくりと丘の上の伯爵邸へと進んでいく。

 かつて私が駆け回った庭園。祖父と剣を交えた稽古場。そして、見慣れた白亜の屋敷の玄関。

 そこには、私の帰りを待つ「家族」が揃っていた。


 ◇


 馬車が止まり、グレゴールが扉を開ける。

 私は震える足で、地面に降り立った。


 目の前に立つのは、父ロベルト、母セシリア。そして祖母マルガレーテ。傍らには騎士団長ハインリヒも控えている。


「……ただいま、戻りました。お父様、お母様」


 私がそう言った瞬間。

 母様が、ドレスの裾を乱すことも厭わずに駆け寄ってきて、私を強く、壊れんばかりに抱きしめた。


「エリアナ……! ああ、私の可愛いエリアナ……。よく、よく戻ってきてくれました……!」


 母様の胸からは、石鹸の香りと、三年前と変わらぬ温もりがした。

 それまで「復讐者」として気を張っていた私の内側で、何かが決壊した。


「お母様……うわぁぁぁぁん……!」


 私は、十五歳の令嬢であることを忘れ、三年前の、あの放逐された日の子供に戻って泣きじゃくった。母様の肩を濡らし、嗚咽を漏らしながら、私はただ縋りついた。


 父様も歩み寄り、私たち二人を包み込むように大きな腕で抱き寄せた。


「すまなかった、エリアナ。お前をあんな暗い森へ一人で追いやってしまったこと……悔やまぬ日はなかった。戻ってきてくれて、本当に有難う」


 父様の声も震えていた。見上げれば、厳格な父様の頬を、幾筋もの涙が伝っている。


 祖父様も、杖を突きながら優しく頷いた。

「よく頑張った、エリアナ。お前の剣と魔法が、真実を切り拓いたのだ。ヴェルナーの誇りよ」


 ハインリヒは、騎士の礼を取りながら、その逞しい肩を震わせていた。


 復讐を果たした時も、王都に勝利の凱旋をした時も感じられなかった、本当の意味での「救い」が、この場所にはあった。


 ◇


 その日の夜。

 伯爵邸の暖炉の前で、私たちは久しぶりの家族の団欒を過ごした。


 私は、ノルトヴァルト帝国での三年間を、一つひとつ丁寧に話した。

 ヴォルフガング師匠という、不器用ながらも深い愛情を持って私を鍛えてくれた師のこと。

 極夜の森で死に直面し、光の魔法を手に入れた時のこと。

 氷の館で、寒さに震えながらも復讐の炎を灯し続けた夜のこと。


「……最初は、憎しみだけが私を動かしていました。でも、師匠は言ったんです。『魔法は意志の力だ』って。私の意志が、ただの破壊ではなく、大切な人を守るための力に変わった時、魔法もまた形を変えたのだと思います」


 話す私の表情は、自分でも驚くほど穏やかだった。

 悲惨な経験を語っているはずなのに、悲愴感はない。それは、その苦難さえも、今の自分を形作る大切な一部であると受け入れられたからだろう。


「ヴォルフガングには、私からも礼を言わねばならんな」


 父様が、温かなワインを口にしながら呟いた。

「彼はお前を道具にすると言ったそうだが、結局は一番の理解者となってくれた。ヴェルナー家は彼に一生の恩ができたよ」


「ええ、本当に。いつか師匠を、この温暖なヴェルナー領に招待したいですわ。きっと『暑すぎる』と言って、部屋中を凍らせてしまうでしょうけれど」


 私の冗談に、家族が声を立てて笑った。

 三年前には考えられなかった、平和で幸せな笑い声。


 ◇


 それからの一ヶ月間。

 私はヴェルナー領で、夢のような休息を過ごした。

 朝は鳥のさえずりで目覚め、アンナの淹れたお茶を飲み、日中は領民たちと語らったり、稽古場でハインリヒと手合わせをしたりした。


 ノルトヴァルトの凍てつく魔力は、この温暖な気候の中で、より柔軟で深みのあるものへと馴染んでいった。

 魔法で庭の花々に水を撒き、領地の子供たちに小さな虹を見せてあげる。

 復讐のために磨いた力が、誰かの笑顔を作るために使われる喜び。

 私の心の中にあった「氷の楔」は、一ヶ月の春の光を浴びて、跡形もなく溶け去っていた。


 そして。

 一ヶ月が過ぎ、野に咲く花が春から初夏のものへと移り変わる頃。

 私は再び、旅立ちの準備を整えた。


「行くのだな、エリアナ」


 玄関先で見送る父様に、私は力強く頷いた。


「はい。王都には、私を待ってくれている人がいます。そして、この国をより良くするために、私の力を役立てたいんです」


 母様は私の手を握り、優しく微笑んだ。


「いつでも帰っておいで。ここはあなたの家よ」


「ええ、お母様」


 私は再び、アンナとグレゴールと共に馬車に乗り込んだ。

 行き先は、再びの王都アルトリウム。


 一ヶ月前、私は「復讐」を遂げるためにそこへ向かった。

 けれど今は、違う。

 私は「愛する人」に会うために、そして彼と共に「未来」を作るために向かうのだ。


 馬車が動き出し、懐かしい伯爵邸が遠ざかっていく。

 窓から入る風はどこまでも心地よく、私の銀色の髪を優しく揺らした。


 一週間の旅路の果てに、アレクシス様が待っている。

 彼と共に見るアルトリアの景色は、きっとどんな魔法よりも美しく、輝いているに違いない。


 馬車を引く蹄の音が、新しい物語の幕開けを告げる鼓動のように、晴れ渡った空に響き渡っていた。


お読みくださり有難うございます!!

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