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氷霧の令嬢 ~ 放逐された少女の復讐譚 ~  作者: 鍼野ひびき


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第5話:追憶の春、翳りゆく楽園

 復讐を遂げ、アレクシス様の腕の中で温もりを取り戻した今、私は時折、あの「嵐」が吹き荒れる前の日々を思い出す。

 それは、まるで磨き抜かれた水晶のように透き通り、陽だまりのような暖かさに満ちた時間だった。


 ◇


 アルトリア王国の南端に位置するヴェルナー伯爵領。

 そこは、豊かな水源と緑に恵まれ、一年を通じて穏やかな風が吹き抜ける美しい土地だった。

 私の幼少期の記憶は、常に父ロベルトの厳しいが慈愛に満ちた声と、母セシリアが奏でるハープの音色、そして祖父エドヴァルトと交わした剣の風切り音と共にあった。


「エリアナ、腰が高い! ヴェルナーの剣は、柳のようにしなやかでありながら、鋼のごとき芯を持たねばならん」


 領地の高台にある稽古場で、私は祖父の厳しい指導を受けていた。

 十二歳になる頃の私は、小柄ながらも領内の騎士たちを驚かせるほどの剣の才を見せていた。祖父から譲り受けた練習用の細剣を振るうたび、翠玉色の瞳を輝かせ、流れる汗を拭うことさえ忘れて没頭した。


「見て、おじい様! 今の打ち込み、風を切ったわ!」


「ふむ、筋は悪くない。だが、エリアナよ。剣は人を傷つけるための道具ではない。愛する者を守り、己の正義を貫くための依り代であることを忘れるな」


 祖父の言葉は、当時の私にはまだ半分も理解できていなかった。ただ、褒められることが嬉しくて、私はもっと強く、もっと高くへと手を伸ばし続けた。


 魔法の鍛錬も同様だった。

 私の中に宿る水属性の魔力は、領地の清らかな川の流れと共鳴するように、驚くほど素直に私の意志に従った。

「エリアナ様、またお庭の噴水で遊んでいらっしゃるんですか?」

 専属侍女のアンナが困ったように笑いながら、タオルを持って駆け寄ってくる。

 私は魔法で小さな水の鳥を作り出し、彼女の周りを飛ばせては無邪気に笑っていた。


「ねえ、アンナ。王立学院に行けば、もっとすごい魔法が学べるのかしら?」


「ええ、もちろんですわ。お嬢様のような天才なら、きっと学院でも皆様に一目置かれる方になられますよ。ただ、あまり無茶をなさって、周りの方々を困らせてはいけませんよ?」


「もう、アンナったら!」


 そんな他愛のない会話。

 父様が誇らしげに私の入学許可証を眺め、母様が私のために新しい制服を誂えてくれた日々。

 期待に胸を膨らませ、馬車に揺られて王都へ向かったあの日、私の前には輝かしい未来しか存在しないと信じて疑わなかった。


 ◇


 王立学院での生活は、期待以上に華やかだった。

 白亜の回廊、歴史を感じさせる大講堂、そして全土から集まった貴族の子弟たち。

 私は「ヴェルナーの至宝」という、少し気恥ずかしい二つ名と共に、瞬く間に学院の注目を浴びることとなった。


 魔法実習では、誰よりも早く高度な水魔法を成功させ、剣術の授業では上級生の男子生徒を打ち負かす。

 けれど、私が求めていたのは名声ではなく、純粋な学びと、そして――運命の出会いだった。


 入学して一ヶ月が過ぎた頃。

 放課後、私はお気に入りの詩集を抱えて、学院の奥にある静かな図書室を訪れた。

 窓際の一角、夕日が差し込む席に、一人の少年が座っていた。


 金色の髪が夕光を反射して輝き、深い蒼を湛えた瞳が真剣な面持ちで本を追っている。

 その神々しいまでの美しさに、私は息を呑み、動けなくなった。


「……あ、ごめんなさい。邪魔をするつもりではなかったの」


 私が慌てて後退りしようとすると、彼は顔を上げ、驚いたように瞬きをした。

 そして、花が綻ぶような穏やかな微笑みを浮かべた。


「いや、大丈夫だよ。ここは僕の専用席というわけじゃない。……君は、ヴェルナー伯爵令嬢のエリアナさんだね?」


「……はい。あなたは……」


「アレクシスだ。王家の一員という肩書きはあるけれど、ここではただの一生徒として接してほしいな」


 それが、第二王子アレクシス様との出会いだった。

 王子という雲の上の存在でありながら、彼は驚くほど謙虚で、知性に溢れていた。

 私たちはすぐに意気投合した。

 好きな詩の話、魔法の理論、そしてこの国の未来へのささやかな希望。

 放課後の図書室は、私たちだけの特別な聖域となった。


「エリアナの魔法は、とても優しいね。水が生きているみたいだ」


 ある日、私が指先で作った小さな水の結晶を見つめ、彼はそう言った。

「僕は、君のような清らかな心を持った人が、この国を支えてくれることを願っているんだ」


「アレクシス様……。私は、ただ自分の好きなことをしているだけですわ」


「それが一番大切なことだよ。君のその真っ直ぐな瞳を、僕は守りたいと思うんだ」


 彼の手が、私の手にそっと重なる。

 その熱に、私の胸は壊れそうなほど高鳴った。

 それは、友情よりも深く、信頼よりも甘い、生まれて初めての感情だった。

 この人と共になら、どんな困難も乗り越えていける。そう確信していた。


 ◇


 けれど、その幸せの裏側で、音もなく毒が回っていた。


「あら、エリアナ様。今日も殿下と密会ですの? 随分と積極的ですこと」


 廊下で私を呼び止めたのは、ヴィクトリア・フォン・グランディア公爵令嬢だった。

 彼女は取り巻きのイザベラたちを引き連れ、扇子で口元を隠しながら私を冷たく見下ろした。


「密会などではありませんわ、ヴィクトリア様。図書室で学問の話をしていただけです」


「お黙りなさい。公爵家が長年、殿下の隣に立つべく努めてきた経緯をご存じないの? 伯爵家の分際で、その秩序を乱そうなど、分をわきまえた行動とは言えませんわね」


 彼女の紫の瞳に宿る、暗い嫉妬と憎悪。

 当時の私は、それを「高慢な令嬢のやっかみ」程度にしか考えていなかった。

 私が正当に努力し、清廉に振る舞っていれば、誰も私を貶めることなどできない。そんな甘い理想を抱いていた。


 事件が起きたのは、春の終わりを告げる「新緑の晩餐会」の数日前だった。


「エリアナ、明日、講堂の裏庭に来てくれないか? 君に見せたいものがあるんだ」


 アレクシス様から届いた、一通の手紙。

 私は喜びに胸を躍らせ、指定された時間に裏庭へと向かった。

 けれど、そこで私を待っていたのは、彼ではなく、血の海の中に倒れ伏す彼と、それを見下ろして叫ぶヴィクトリアの姿だった。


「ああ……! 誰か、誰か来てください! エリアナ様が、エリアナ様が殿下を刺しましたわ!」


「……え……?」


 私は凍りついた。

 アレクシス様の腕からは血が流れ、足元には私が見覚えのある――いいえ、私の部屋にあるはずのヴェルナー流の短剣が転がっていた。


「違う、私は今来たばかり……!」


「嘘をおっしゃい! あなたが殿下に拒絶され、逆上して刃物を振り上げたのを、わたくしたちはこの目で見ましたわ!」


 植え込みの影から、イザベラや他の取り巻きたちが次々と姿を現す。

 彼女たちの瞳には、周到に用意された「嘘」が、狂気を孕んで宿っていた。


「殿下! アレクシス様!」


 私が駆け寄ろうとすると、駆けつけた近衛騎士たちに力任せに押さえ込まれた。

「離して! 私は何もしていないわ!」


「黙れ、暗殺未遂犯め!」


 冷たい石畳に顔を押し付けられ、私は泥を噛んだ。

 意識を失いかけているアレクシス様が、苦しげに私の方へ手を伸ばそうとしているのが見えた。

 けれど、ヴィクトリアがその間に入り込み、彼を抱きしめるようにして遮った。


「大丈夫ですわ、殿下。わたくしが、わたくしが守って差し上げます……」


 その瞬間、ヴィクトリアと目が合った。

 彼女は、騎士たちの背後で、私にだけ見えるように口角を吊り上げ、歪んだ勝利の笑みを浮かべた。


 すべては、仕組まれていたのだ。

 私がアレクシス様と育んできた信頼も、私の未来も、私の名誉も。

 すべては、彼女の嫉妬という名の炎で焼き尽くされるために用意された舞台だった。


 ◇


 それからの数日間は、地獄という言葉ですら生ぬるい時間だった。

 学院の地下牢に閉じ込められ、連日のように尋問を受けた。


「認めろ。お前は公爵家の地位を妬み、殿下を我が物にするために暗殺を企てたのだろう?」


「違います……私は、アレクシス様を……ただ、大切に思っていただけで……」


「大切に思う者を刺すか? お前の部屋からは、暗殺に使われた毒薬と同じ瓶も見つかったのだぞ」


 捏造された証拠。

 買収された証人。

 昨日まで私に微笑みかけていた友人たちは、一転して私を「稀代の悪女」として罵倒した。


 唯一の救いだった父様でさえ、王家への反逆という重罪の前には、私の無実を公に叫ぶことができなかった。

 牢の鉄格子越しに面会した父様は、私の手を握り、涙を堪えながら囁いた。


「エリアナ……信じなさい。お前は、ヴェルナーの娘だ。どんなに闇が深くとも、己の中の光を絶やすな」


 それが、私がアルトリア王国で聞いた、最後の温かな言葉だった。


 断罪の調べが響く中、私は貴族籍を剥奪され、国外追放の宣告を受けた。

 銀色の髪は乱れ、制服はボロボロに引き裂かれた。

 馬車に押し込められる直前、私は遠くに王城のバルコニーを見上げた。


 そこには、包帯を巻いたアレクシス様と、その隣にぴったりと寄り添うヴィクトリアの姿があった。

 アレクシス様の表情は、遠すぎて見えない。

 けれど、私は誓った。


(私は、死なない。死んであげるものですか)


 胸の中に、かつてないほど冷たく、鋭い種火が宿るのを感じた。

 それは、かつて私が愛した清らかな水魔法とは対極にある、すべてを凍らせる憎悪の力。


「……待っていなさい、ヴィクトリア。いつか必ず、あなたが踏みにじったこの魂の重さを、教えてあげる」


 馬車が動き出す。

 春の柔らかな日差しが、私には死神の鎌のように感じられた。

 私が愛したアルトリアの風景が、涙で霞んで消えていく。


 これが、私の選んだ道の、原点だった。

 陽だまりのような楽園が終わりを告げ、北の凍てつく闇へと続く扉が、音を立てて閉じた瞬間。

 あの春の日の少女は、復讐者として生まれ直すことを、自らの意志で選んだのだ。


お読みくださり有難うございます!!

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