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氷霧の令嬢 ~ 放逐された少女の復讐譚 ~  作者: 鍼野ひびき


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第3話:再臨、鈍色の王都

 ノルトヴァルト帝国の国境を越え、馬車がアルトリア王国の領土へと入った瞬間、空気の質が変わった。

 鼻腔をくすぐるのは、冷徹な氷の匂いではなく、湿った土と春を待つ草木の、どこか粘りつくような生の気配。かつて私が愛し、そして私を拒絶した故国の香りだ。


「……お嬢様、顔色が優れませんな。少しお休みになりますか?」


 向かい側に座るグレゴールが、心配そうに私を覗き込んだ。

 私は窓の外、流れていくのどかな田園風景を見つめたまま、首を横に振る。


「大丈夫よ、グレゴール。ただ……この温さが、少し落ち着かないだけ」


 三年前、私はこの道を、後ろ手に縛られ、罪人として馬車に揺られた。あの時は、窓の外を見る余裕などなかった。ただ、絶望という名の泥濘に沈み、消えてしまいたいと願っていた。

 けれど今、私の指先は、ミスリルの杖の感触を確かめ、冷静に魔力の循環を整えている。


「準備はできているわね?」


「はっ。お嬢様はこれより、隣国から招聘された若き魔道士、『エレナ・ホワイト』として王都へ入ります。ノルトヴァルト帝国の魔術師ギルド発行の紹介状も、ヴォルフガング様の手配により本物として用意してございます」


「『エレナ』、か。いい名前ね。……エリアナ・フォン・ヴェルナーは、あの森で死んだのだから」


 私は、膝の上に置いた漆黒のローブを指先でなぞった。

 銀色の髪は、特殊な魔道具の薬液によって、今はありふれた灰褐色に染められている。翠玉色の瞳も、魔力で色を抑え、くすんだ灰色に見えるように細工した。

 鏡の中に映るのは、凛とした気品こそあるものの、かつての「ヴェルナーの至宝」とは似ても似つかぬ、地味な少女の姿だ。


 これならば、実の親であっても一目で見抜くことは難しいだろう。

 ましてや、私を「排除すべきゴミ」として記憶の隅に追いやったヴィクトリアたちであれば。


 ◇


 王都「アルトリウム」の城門が見えてきたのは、国境を越えて五日目の夕暮れ時だった。

 白亜の城壁は、夕日に照らされて黄金色に輝いている。かつては誇りに思っていたその美しさが、今の私には、中に潜む腐敗を隠すための薄汚い化粧にしか見えなかった。


 城門での検問は厳重だった。

 近年、第二王子アレクシス様を巡る不穏な動きがあるらしく、騎士たちの神経は尖っているようだ。


「次、止まれ。……身分証を」


 鎧の擦れる音と共に、一人の騎士が馬車に歩み寄る。

 私は深くフードを被り、グレゴールが差し出す紹介状を横で見守った。


「ノルトヴァルト帝国からの招聘魔道士、エレナ殿か。……こんなに若い娘が?」


 騎士が疑わしげに私を上から下まで眺める。

 私はわざとらしく、杖を軽く地面に突いた。

 瞬間、騎士の足元の石畳が、薄っすらと白く凍りつく。極寒の魔力の一端を、わざと漏らしたのだ。


「……っ!?」


 騎士が息を呑み、一歩後退る。

「失礼しました。……どうぞ、お通りください。ホワイト殿」


 恐怖。それが、今の私を守る最も手っ取り早い盾だった。

 馬車が石畳を叩く規則正しい音を聞きながら、私は王都の内側へと足を踏み入れた。


 ◇


 王都に潜入して数日、私はグレゴールが手配した隠れ家に身を置いていた。

 下町に近い、古びたが清潔な石造りの建物の一室。ここはヴェルナー家の息がかかった商人の持ち物で、周囲の監視も行き届いている。


「お嬢様、最新の情報です」


 夕闇が落ちる頃、市場へ偵察に出ていたグレゴールが戻ってきた。

「一週間後、王立学院の講堂にて、第二王子アレクシス殿下とヴィクトリア・フォン・グランディア公爵令嬢の『婚約内定披露の儀』が行われるとのことです」


「……ついに、そこまで漕ぎ着けたのね。彼女は」


 私は、窓の外、遠くにそびえる王城を見つめた。

 ヴィクトリア。私の冤罪を仕立て上げ、私からすべてを奪った女。

 彼女は今、勝利の美酒に酔いしれていることだろう。アレクシス様を自分の所有物にするという、彼女の歪んだ欲望が叶おうとしている。


「アレクシス様のご様子は?」


「……芳しくありません。表舞台には姿を見せておられますが、その表情は仮面のようで、側近以外の誰とも言葉を交わされないとか。幽閉同然の生活が、殿下の心を蝕んでいるとの噂です」


 胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。

 アレクシス様。あなたは、まだあの日から動けずにいるのですか。

 私のために、王家の中で孤立し、戦い続けてくれているのですか。


(待っていてください、アレクシス様。私が、その鎖を断ち切って差し上げます)


 だが、今の私に焦りは禁物だ。

 正面から乗り込んでも、三年前と同じく「狂言」として片付けられてしまう。

 私に必要なのは、彼女の陰謀を白日の下に晒すための、逃げ場のない「証拠」と、それを突きつけるための「舞台」だ。


「グレゴール。王立学院に、外部講師として潜り込むことは可能かしら?」


「外部講師、でございますか?」


「ええ。披露の儀に際して、各国の魔術師が祝辞や演武を行う慣習があるはずよ。ノルトヴァルトの若き天才として、私はその場に立ちたい」


 ヴィクトリアが最も輝くその瞬間に、彼女が一番恐れている存在――死んだはずのエリアナ・フォン・ヴェルナーとして、彼女の目の前に立ち塞がる。

 それが、私の考えた最高の復讐のプロローグだった。


 ◇


 翌日、私は変装を解かぬまま、独りで王都の街へ出た。

 かつての自分の足跡を辿る。それは、心に刻まれた傷口を一つずつ指でなぞるような、苦痛を伴う作業だった。


 ふと、足を止めたのは、王立学院へ続く大通りの角にある小さな菓子店だった。

 そこのレモンパイが大好きで、アンナに内緒でよく買いに来たものだ。


「……あの、お嬢さん。何かお探しですか?」


 声をかけられ、私はハッとして顔を上げた。

 店先に立っていたのは、一人の若い女性だった。

 エプロン姿で、手には焼きたてのパンを抱えている。


「……アンナ?」


 思わず、その名が唇から漏れた。

 そこにいたのは、かつての私の専属侍女、アンナだった。

 私が追放された後、ヴェルナー家に居場所を失った彼女は、この下町で働き口を見つけたのだろう。かつてより幾分か痩せ、その瞳には常に怯えたような光が宿っていた。


「えっ……? どうして、私の名を……」


 アンナが不審げに私を見つめる。

 しまった、と私は口元を抑えた。今の私は「エレナ」だ。彼女を知っているはずがない。


「……いえ、失礼。以前、この店で働いていると聞いたことがあったものですから」


 私は声を低くし、他人のふりをして通り過ぎようとした。

 だが、アンナが私の袖を、震える手で掴んだ。


「待ってください……。あなた、どなたですか? その……なんだか、とても……」


 彼女の瞳から、涙が溢れ出した。

「お嬢様に……エリアナお嬢様に、どこか似ていて……。ああ、私、何を言っているんでしょう。お嬢様はもう……」


「……」


 私は、彼女を抱きしめたい衝動を必死に抑えた。

 アンナ。あなたは、あの後どうなったの?

 こんな場所で、ずっと一人で、それでも私のことを覚えていてくれたの?


「その方は、きっと素敵な方だったのですね」


 私は、感情を押し殺した無機質な声で言った。

「ですが、私はノルトヴァルトから来た旅の魔術師です。あなたのお知り合いではありません」


 私は彼女の手をそっと振り切り、歩き出した。

 背後で、アンナが崩れ落ちる気配がした。

(ごめんなさい、アンナ。今はまだ、あなたを巻き込むわけにはいかないの)


 私の心は、再び氷に覆われていく。

 情けをかければ、その分だけ刃は鈍る。

 私は、ただの冷酷な氷の魔術師でいなければならない。


 ◇


 潜入から三日目。

 私は、隠れ家の部屋で魔法の修練を行っていた。

 室内には、私の魔力に反応した薄い霧が立ち込めている。

 手元の水晶球を浮遊させ、そこに「光」と「氷」を交互に注ぎ込む。


 カツン、と。

 背後で、窓を叩く音がした。

 私は瞬時に杖を構え、窓の方を向く。

「誰?」


「……相変わらず、鋭いな。いや、以前よりもずっと、恐ろしくなっている」


 開いた窓から滑り込むように入ってきたのは、一人の男だった。

 黒い軽装鎧に身を包んだ、精悍な顔立ちの青年。

 ヴェルナー領騎士団長、ハインリヒだ。


「ハインリヒ……。どうしてここが分かったの?」


「執事長が手配した隠れ家であれば、我ら騎士団のネットワークには筒抜けですよ。もっとも、お嬢様を保護するため、他の者には伏せてありますが」


 ハインリヒは膝をつき、恭しく頭を下げた。

「お帰りなさいませ、エリアナお嬢様。……三年前、あなたを守れなかったこと、この命にかけてもお詫び申し上げます」


「顔を上げて、ハインリヒ。……あなたは、父様に命じられて領地を守っていただけ。謝る必要はないわ」


 私は彼に歩み寄り、その肩を叩いた。

「それよりも、教えて。今の王都の、真の情勢を」


 ハインリヒは重々しく口を開いた。

「ヴィクトリア公爵令嬢は、近衛騎士団の半分を実質的に掌握しています。彼女の父であるグランディア公爵が、国王陛下の不調をいいことに政務を代行しているからです」


「国王陛下が不調?」


「はい。半年ほど前から、原因不明の衰弱が続いておられます。……巷では、公爵家による毒殺の疑いも囁かれていますが、証拠はありません」


 ヴィクトリア。

 彼女は、単にアレクシス様を手に入れるだけでなく、この国そのものを食い潰そうとしているのか。

 あの欲望にまみれた紫の瞳を思い出す。

 彼女にとって、人はただの駒に過ぎない。私もかつて、そうやって弾き捨てられた。


「アレクシス殿下は、陛下の看病を口実に、離宮に軟禁されています。披露の儀の当日までは、誰とも面会できない手はずです。……お嬢様、どうされますか? 我らヴェルナー騎士団は、いつでも命を捨てる覚悟はできております」


「……いいえ、命は捨てないで。あなたたちの命は、私がこの国を立て直した後に必要になるものだから」


 私は、机の上に広げた王都の地図に、一点の光を灯した。

 王立学院、大講堂。

 一週間後、そこですべてが終わる。


「ハインリヒ。あなたには、当日、会場の外詰めをお願いしたい。会場内で混乱が起きた際、グランディアの私兵が乱入するのを防いで」


「御意。……して、お嬢様お一人が会場へ?」


「ええ。……私一人で十分よ」


 私は、ミスリルの杖を握りしめた。

 ヴォルフガング師匠から譲り受けたこの杖には、三年の修行で培った私の全魔力が、高密度で圧縮されている。

 そして、私の内側には、あの「白銀の光」が、解放の時を今か今かと待ち構えている。


 ◇


 披露の儀まで、あと二日。

 私は、王立学院への「外部講師」としての登録を完了させた。

 学院の廊下を歩くと、すれ違う生徒たちの笑い声が耳に刺さる。

 かつて私も、この場所で、アレクシス様と笑い合っていた。


 ふと、廊下の向こうから、取り巻きを引き連れて歩いてくる一団があった。

 華やかなドレスの擦れる音。高圧的な笑い声。

 私はフードを深く被り、壁際に身を寄せた。


「……それで、アレクシス様もようやく諦めてくださったみたい。披露の儀の衣装、彼のために特別に誂えさせたのよ?」


 その声。

 三年間、片時も忘れることのなかった、憎しみの旋律。


 ヴィクトリア・フォン・グランディアが、私のすぐ横を通り過ぎる。

 彼女の放つ香水の香りが、まるで死の匂いのように感じられた。

 彼女の隣には、かつて私を陥れる実行犯となったイザベラ・フォン・クライストの姿もあった。


「さすがヴィクトリア様ですわ。あの泥棒猫……エリアナとか言いましたっけ? あの女が消えて、ようやくこの国も清々しましたわね」


 イザベラが下品な笑い声を上げる。


「あら、そんな名前、もう忘れてしまったわ。……ゴミは、掃き溜めでお似合いの死を遂げたでしょうし」


 ヴィクトリアが、ふと足を止めた。

 彼女は、私のすぐ隣で立ち止まり、不審げにこちらを振り返る。


「……あなた、見ない顔ね。どこの誰?」


 心臓が、激しく鐘を打つ。

 だが、私の意識は驚くほど冷徹だった。

 体内の魔力を完全に凍結させ、気配を消す。


「……ノルトヴァルトから参りました、講師のエレナと申します」


 私は、掠れた低い声で応えた。


 ヴィクトリアは、私の顔をじっと覗き込もうとした。

 だが、変装の魔道具と、私が無意識に放った「拒絶の霧」が、彼女の視線を逸らさせる。


「……ふん、田舎の魔術師ね。礼儀を知りなさい。私の前を横切るときは、跪くものよ」


 彼女は扇子で私の肩を軽く叩くと、興味を失ったように歩き出した。

「行きましょう。披露の儀の準備で忙しいの」


 彼女たちが去った後、私は壁を背に、深く息を吐き出した。

 握りしめた拳が、怒りで震えている。


(……ええ、ヴィクトリア。ゴミは、掃き溜めから戻ってきたわよ)


 あなたの想像も及ばないような、地獄の業火と氷の刃を携えて。

 披露の儀。

 その時、あなたのその美しい顔が、絶望に歪むのを楽しみにしているわ。


 ◇


 王都の夜は、静かに更けていく。

 私は潜伏先の屋根に登り、冷たい風に吹かれながら、夜空を見上げた。

 アルトリアの星空は、ノルトヴァルトのそれよりもずっと近い。


「アレクシス様……」


 私は、懐から一枚の古びたハンカチを取り出した。

 あの日、彼が怪我をした時に差し出した、私の刺繍入りのハンカチ。証拠品として玉座の間に持ち込まれたそれを、審問の混乱の中でグレゴールが密かに回収しておいてくれたものだ。血の染みは残っているが、彼女たちが仕組んだ夜の記憶を、これだけが本物として証明している。


「もうすぐです。もうすぐ、すべてを終わらせます」


 私はハンカチを胸に抱き、静かに目を閉じた。

 私の内側で、白銀の光が静かに、しかし力強く明滅している。

 それは、明後日の披露の儀で、この偽りの王都を焼き尽くすための、断罪の光。


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