第2話:静寂の極夜、偽りの光
ノルトヴァルト帝国の冬は、ただの季節ではない。それは、生命を拒絶する暴力そのものだった。
「氷霧の館」に来てから、どれほどの月日が流れただろうか。暦を数える指先は疾うに凍え、私の感覚はただ「寒さ」と「憎悪」の二色に染め上げられていた。
館の周囲を囲むのは、視界を遮るほどに濃い霧。それは師匠、ヴォルフガング様が展開する大規模な魔力結界であり、私の修行場でもあった。
「立て、エリアナ。その水球は、もはやお前の意志ではない。ただの湿った塊だ」
師匠の声が、冷気を含んで鼓膜を叩く。
私は雪原の上に這いつくばったまま、震える指先を固く握りしめた。
目の前にある直径一メートルほどの水球は、私の魔力供給が途絶え、形を失いかけている。
「……まだ、できます」
口から漏れる吐息は白く、一瞬で結晶となって消える。
私は、己の体内の魔力回路を無理やりこじ開けた。激痛が走る。まるで、血管の中に細かなガラス片を流し込まれるような感覚。
だが、この痛みこそが、私が生きている証明だった。
私は、アルトリア王国で培われた「正統な」魔法の扱いを捨てた。
あの国では、魔法は慈しみ、共鳴するものだと教わった。しかし、ここでは違う。
魔力とは、自然から奪い取り、己の憎悪という鋳型に無理やり流し込み、変質させるための「武器」だ。
「……凍れ……!」
私が叫ぶと同時に、水球は中心から一気に白濁し、表面に無数の棘を生成しながら氷結した。
それは美しい氷の彫刻ではない。触れるものすべてを抉り、引き裂くために作られた、呪詛の結晶。
ヴォルフガング様は、その氷の棘を一瞥すると、鼻で笑った。
「形はいい。だが、冷たさが足りん。お前の心に、まだ『未練』という名の体温が残っている証拠だ」
「未練……? そんなもの、一欠片もありません」
「ほう。ならば、アレクシスという名を耳にしたとき、なぜその指先が震える?」
その名を聞いた瞬間、胸の奥で鋭い痛みが走った。
私の視界に、あの日の金色の髪と、悲しみに満ちた蒼い瞳が閃く。
「……っ、それは……!」
「動揺は死を招く。お前が目指すのは、王への復讐か? それとも、あの王子との再会か?」
師匠の青灰色の瞳が、私の魂を透かそうとする。
私は奥歯を噛み締めた。
復讐。もちろん、そうだ。ヴィクトリア・フォン・グランディア、私からすべてを奪ったあの女。彼女の喉元に、この氷の刃を突き立てるその日のために、私は人間であることをやめたはずだ。
けれど――。
夜、一人で冷たい寝台に横たわるとき。
目を閉じれば浮かんでくるのは、あのアレクシス様との穏やかな午後だ。
図書室の窓から差し込む、柔らかな陽光。
互いの指先が触れそうになり、慌てて視線を逸らした、あの甘酸っぱい空気。
あれさえも、消し去らねばならないのか。
「……分かりません。ただ、力が欲しいだけです。誰にも踏みにじられない、絶対的な力が」
「ならば、極夜の森へ行け」
師匠は、館の北側に広がる原生林を指差した。
そこは、ノルトヴァルト帝国の中でも「死の領域」と呼ばれる場所だった。魔力濃度があまりに高く、精神が摩耗した者は、森そのものに飲み込まれて消えるという。
「そこで一晩、生き延びてみせろ。朝日が昇るまで、己の魔力を絶やすな。……もし、死ぬのならば、それまでの器だったということだ」
◇
極夜の森。
一歩踏み入れると、音さえも凍りついていた。
木々は黒い化け物の腕のようにうねり、雪は血のような色を帯びた赤黒い地衣類に覆われている。
私は一振りの短剣と、微かな魔力だけを頼りに、森の奥へと進んだ。
空には、アルトリアでは見たこともないような、禍々しい緑色のオーロラが揺らめいている。
(寒い……。でも、この寒さこそが、私の友だ)
私は自分に言い聞かせた。
かつて、アルトリアの王立学院で「天才」と称賛されていた自分。
あの頃の私は、光の中にいた。
周囲には微笑みが溢れ、未来は輝きに満ちていた。
けれど、その光は偽りだった。
ヴィクトリアが放った悪意という名の毒が、一瞬でその光を腐らせた。
(信じていた仲間も、私を褒めそやした貴族たちも、誰も私を守ってはくれなかった)
唯一、アレクシス様だけが「君はそんなことをするはずがない」と叫んでくれた。
けれど、その彼も、王家の圧力の前には無力だった。
守れなかった者。守られなかった私。
その事実が、氷よりも深く私の心を抉る。
不意に、背後で雪を蹴る音がした。
私は瞬時に身を翻し、短剣を構える。
そこにいたのは、一頭の巨大な狼だった。
いや、ただの狼ではない。体毛は針のような氷の結晶で覆われ、その瞳は狂気と飢えに赤く燃えている。
「氷絶狼……!」
この森に棲む、魔獣。
狼は低い唸り声を上げると、目にも止まらぬ速さで私へと飛びかかってきた。
「……『氷壁』!」
私は咄嗟に魔力を練り上げ、目の前の空間を凍らせる。
だが、狼の爪は、私の未熟な魔法を紙のように切り裂いた。
「っ……!」
肩に鋭い痛みが走る。
温かな血が雪の上に飛び散り、一瞬で凍りついて赤黒い宝石へと変わる。
狼は、私の血の匂いにさらに興奮したように、咆哮を上げた。
次から次へと繰り出される攻撃。
私は必死に氷の刃を放ち、応戦する。
けれど、森の奥から、さらにもう一頭、二頭と、影が這い出してきた。
群れだったのだ。
(ああ、私はここで終わるのか……?)
意識が朦朧とする中、私は冷たい雪の上に膝をついた。
傷口から魔力が漏れ出し、体温が奪われていく。
視界が暗くなる。
その闇の中で、不思議と懐かしい声が聞こえた気がした。
『エリアナ。お前は、太陽のような子だ』
それは、祖父、エドヴァルトの声だった。
『剣を振るうときも、魔法を操るときも。お前の根底には、人を照らしたいという願いがある。それを忘れるな』
(……違う。私は、もう……)
私は首を振った。
今の私は、冷酷な復讐者だ。人を照らす光など、どこにもない。
あるのは、凍てつく闇だけ。
だが、狼の牙が私の喉元に迫ったその瞬間。
私の中で、何かが弾けた。
それは、憎悪ではなかった。
絶望でもなかった。
それは――「生きたい」という、あまりにも純粋で、あまりにも傲慢なエゴ。
(私は、死なない。あいつらが、のうのうと笑っている世界で、私だけが消えるなんて、絶対に許さない……!)
その瞬間、私の内側から「熱」が溢れ出した。
それは、ヴォルフガング様から教わった冷たい水魔法ではない。
かといって、アルトリアの平穏な光魔法でもない。
ふと、師匠の言葉が脳裏を掠めた。
――いつか、光を求めるときが来る。
その時は、まだ来ないと思っていた。だが、今この瞬間、私の中で凍りついていた何かが、燃え盛る衝動となって噴き出していた。
それは、闇を焼き尽くし、すべてを剥き出しにする、苛烈な「白銀の光」。
「……どきなさい」
私の唇から、自分でも驚くほど冷徹な声が漏れた。
次の瞬間、私の体を中心にして、爆発的な光の波動が広がった。
「あああああ……ッ!」
狼たちの悲鳴が、森に響き渡る。
私が放ったのは、光の属性でありながら、氷の鋭さを持った異質のエネルギーだった。
光に触れた狼たちの肉体は、一瞬で凍結し、さらにその内側から膨大な光の圧力によって粉々に砕け散った。
光属性――。
それは、選ばれし聖者や、高い徳を持つ者にしか宿らぬと言われる「神聖」な力。
けれど、私の手の中に宿ったそれは、神に祈るためのものではなかった。
敵を屠り、道を切り拓くための、冷酷な武器。
「これが……私の……」
私は、自分の両手を見つめた。
そこには、青白い光の粒が、雪の結晶のように舞っている。
属性を超越した、矛盾する二つの力。
水が極まり、その極致において、すべてを透過させる「光」へと変質したのだ。
その光に照らされた私の周囲だけ、雪が溶け、黒い大地が顔を出していた。
◇
翌朝。
館へと帰還した私の姿を見て、ヴォルフガング様は初めて、その冷淡な仮面を崩した。
「……光か。あり得ん」
彼は私の手を取り、その魔力波形を慎重に確認する。
「水属性の適性を持つ者が、努力の果てに光を掴む例は、歴史上にも数えるほどしかない。しかも、お前のそれは……通常の治癒や浄化の光とは、本質が異なる」
「……どういうことですか?」
「破壊の光だ。対象を浄めるのではなく、その存在そのものを光で『塗りつぶし』、消滅させる。……皮肉なものだな、ロベルト。お前の娘は、聖女にもなれたはずの資質を、復讐のための魔剣へと変えよった」
師匠は、独り言のようにロベルトの名を呟くと、寂しげに笑った。
長い沈黙があった。彼は私の魔力波形をもう一度確かめるように私の手を取り、やがてゆっくりと放した。その表情には、かつて一度も見せたことのない、静かな覚悟のようなものが宿っていた。
そして、彼は私の肩に手を置いた。
「いいだろう。これまではお前を『道具』として扱ってきたが、今日からは『後継者』として認めよう。お前に、私のすべてを授ける」
「ありがとうございます、師匠」
私は深く頭を下げた。
私の心は、もう揺るがない。
手に入れたこの光は、いつか必ず、アルトリア王国の欺瞞を暴くための灯火となる。
◇
それから三年。
私は十五歳になっていた。
銀色の髪は腰まで伸び、その瞳は、もはや少女のそれではなく、研ぎ澄まされた刃のような鋭利さを備えていた。
背丈は小柄なままだが、身に纏う魔力の重圧は、並の魔術師であれば近づくことさえ困難なほどに高まっていた。
修行は、もはや魔法や剣術だけにとどまらなかった。
大陸全土の情勢、各国の貴族の相関図、毒薬の知識、暗殺術の基礎。
復讐に必要なすべてのピースを、私は一つずつ埋めていった。
「エリアナ。客人が来ている」
ある雪の降る午後。
書庫で古い魔導書を読んでいた私に、師匠が声をかけた。
「客? この館に、私以外の誰かを招くなんて珍しいですね」
「……お前の、父の使いだ」
その言葉に、心臓が大きく跳ねた。
父様。私をあの国から、死に物狂いで逃がしてくれた人。
応接室に向かうと、そこには見覚えのある顔があった。
ヴェルナー家の執事長、グレゴールだ。
彼は三年前よりも幾分か老け、顔には深い皺が刻まれていた。
「……お、お嬢様……。ああ、何というお姿に……」
グレゴールは私を見るなり、その場に跪き、むせび泣いた。
私は、溢れ出しそうになる感情を、無理やり氷の壁の奥へと押し込めた。少しの間、私は彼が泣き止むのをただ待った。言葉をかければ、自分の方が崩れてしまいそうだったから。
「面目ございません。お迎えにあがるのが、これほど遅くなってしまい……。旦那様も、奥様も、片時もお嬢様のことを忘れずにおられました」
「……顔を上げてください、グレゴール。父様たちは、お元気なのですか?」
「はい。旦那様は、陛下への不信感を募らせながらも、領地の守りを固めつつ、水面下でお嬢様の無実を証明するための証拠を集め続けておられます。……しかし、事態は急を告げております」
グレゴールの話によれば、王都ではヴィクトリア・フォン・グランディアが、いよいよ第二王子アレクシス様との婚約を成立させようとしているのだという。
そして、その影で。
アレクシス様は、私を探すために独断で国外へ出ようとし、事実上の幽閉状態に置かれているとのことだった。
「アレクシス様が……」
胸の奥が、熱くなる。
彼は、まだ私を諦めていなかった。
三年前、私が彼を裏切ったと信じ込ませるための偽造工作が、あれほど完璧だったというのに。
「お嬢様。旦那様からの伝言です。『準備は整った。戻ってこい、エリアナ。お前の、本当の居場所を奪い返す時だ』と」
私は、窓の外に広がる氷の世界を見つめた。
ここに来たとき、私はただの、泣き虫で無力な十二歳の少女だった。
けれど今は違う。
私には、師匠から受け継いだ「氷霧」の魔術がある。
そして、極夜の森で手に入れた、すべてを打ち砕く「白銀の光」がある。
何より、三年間絶やさず燃やし続けた、復讐という名の燃料がある。
「師匠。……行かせていただきます」
私は背後に立つヴォルフガング様を振り返った。
師匠は、黙って私の前に立ち、一本の杖を差し出した。
それは、彼が長年愛用していた、魔力伝導率の極めて高いミスリル製の杖だった。
「行け。そして、お前の意志が正しかったことを、世界に証明してみせろ。……もし行き詰まったら、いつでもこの霧の中に帰ってくるがいい。ここは、お前の家だ」
師匠の言葉に、初めて私の頬を一筋の涙が伝わった。
けれど、その涙はもう、冷たくはない。
それは、決意を固めるための、最後の一滴。
「……行ってまいります」
私は銀色の髪を一つに束ね、父から贈られた短剣を腰に差し、グレゴールと共に館を出た。
館を包む霧が、私の通る道だけを、まるで歓迎するように開けていく。
向かう先は、南。
私の故郷であり、私を地獄へ突き落とした、アルトリア王国。
「ヴィクトリア……。あなたが手に入れたその偽りの玉座。私が、徹底的に叩き壊してあげる」
私の呟きは、雪風に乗って消えた。
十五歳の少女が、復讐者として、再びその国の地を踏もうとしていた。
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