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氷霧の令嬢 ~ 放逐された少女の復讐譚 ~  作者: 鍼野ひびき


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第1話:凍てつく春、断罪の調べ

 春の陽光は、本来であれば希望の象徴であるはずだった。

 アルトリア王立学院の庭園に咲き誇る白百合の香りは、甘く、どこまでも平穏で。けれど、私の鼻腔を突くのは、鉄の錆びたような血の匂いと、冷たい石床の湿り気だけだった。


「エリアナ・フォン・ヴェルナー。貴様を、アレクシス殿下暗殺未遂の容疑で拘束する」


 その言葉が、私の耳に届いたとき、世界から色が消えた。

 つい数時間前まで、私はアレクシス様と図書室で詩集を読み耽っていたはずだった。はにかむ彼と視線が合い、胸の高鳴りを抑えるのに必死だった、あの暖かな時間は幻だったのだろうか。


 騎士たちに左右を固められ、引き立てられた玉座の間。

 そこには、厳格な面持ちの国王陛下と、悲痛な表情を浮かべる王妃様。そして――。


「エリアナ……なぜ、君が……」


 顔を青白くさせ、寝台から這い出してきたかのような痛々しい姿のアレクシス様がいた。彼の腕には包帯が巻かれ、そこには私が彼に贈ったはずの刺繍入りのハンカチが、どす黒い血に染まって落ちていた。


「違います……私は、そんなことは……!」


 叫ぼうとした私の声は、隣に立つ少女の冷笑によって遮られた。

 ヴィクトリア・フォン・グランディア公爵令嬢。今日の審問に「事件の証言者」として呼ばれたと聞いていたが、その紫の瞳には、悲しみの色など微塵もなかった。艶やかな黒髪を揺らし、勝ち誇ったような光を宿してこちらを見下ろす彼女は、涙を誘うような仕草でハンカチを口元に当てた。


「見苦しいわよ、エリアナ様。あなたの部屋からは、殿下の食事に混入されたものと同じ猛毒の瓶が見つかったのですわ。それに、あなたが殿下を呼び出したあの手紙……筆跡鑑定も済んでいますの」


「嘘よ……ヴィクトリア、あなたが、どうして……!」


「信じていた友人が、まさか殿下の命を狙うなんて。……恐ろしい人」


 私は必死に周囲を見渡した。けれど、そこに並ぶ貴族たちの視線は、氷のように冷たかった。

「才色兼備の令嬢が聞いて呆れる」「ヴェルナー家の面汚しだ」「恐ろしい蛇のような女」。

 数日前まで私を「ヴェルナーの至宝」と持ち上げていた口々が、今は私を切り刻む刃となって降り注ぐ。


 無実を証明する術など、十二歳の私には何もなかった。

 仕組まれた証拠、偽の証言。

 私は、自分の足元が崩れ落ちていくような感覚の中で、ただ一人、父の姿を探した。


 ◇


「……申し訳ございません、陛下。娘に代わり、父である私がお詫び申し上げます」


 父、ロベルト・フォン・ヴェルナー伯爵の震える声が響いた。

 父は私を見ようとしなかった。ただ、深く、深く頭を下げ、その拳を白くなるまで握りしめていた。

 ヴェルナー流剣術の達人である父の背中が、あんなに小さく、脆く見えたのは初めてだった。


「ロベルトよ、顔を上げよ。……其方の忠義に免じ、極刑は免じよう。だが、王室を害そうとした罪は重い。エリアナ・フォン・ヴェルナーは、本日をもって貴族籍を剥奪。アルトリア王国より永久追放とする」


 死刑ではない。けれど、それは生きながらの死を意味していた。

 名前を奪われ、家族を奪われ、愛する人を奪われる。


「エリアナ、行け。二度と、この国の土を踏むことは許さぬ」


 父がようやく私を見たとき、その灰色の瞳には絶望と、そして一筋の鋭い「光」が宿っていた。

 それが何であるか、その時の私には分からなかった。ただ、父の手が私の肩を強く掴み、そのまま騎士たちに引き渡された感触だけが、熱く残った。


 ◇


 王都から北へ、窓のない馬車に揺られて一週間。

 護送の騎士たちは、私を人間として扱わなかった。食事は一日に一度、硬いパンの切れ端だけ。水も泥混じりのものを与えられた。


 銀色の髪は汚れ、翠玉色の瞳は光を失っていった。

 馬車が止まったのは、国境付近の深い森の入り口だった。


「ここから先は、ノルトヴァルト帝国だ。……お嬢様、いや、罪人エリアナ。死にたくなければ、野垂れ死ぬ前に誰かを拾うことだな」


 騎士の一人が吐き捨てるように言い、私の背中を蹴り出した。

 冷たい泥の上に転がった私の前に、一つの包みが投げ捨てられる。

 父が密かに持たせたものだろうか。中には、古びた一振りの短剣と、一通の手紙、そして見慣れぬ銀の紋章が入っていた。


 馬車が去っていく音を聞きながら、私は這いつくばったまま手紙を開いた。


『エリアナ、許してくれ。

 お前の無実を証明するには、今の私には力が足りない。

 この紋章を持って、北の森の奥にある「氷霧の館」を訪ねなさい。

 そこにいるヴォルフガングは、私の唯一無二の友だ。

 生きろ。生きて、牙を研げ。

 お前の清廉さは、今のこの国では毒でしかない。

 氷の心を持ち、復讐の炎を絶やすな。

 いつか必ず、お前を迎えに行く。

 父より』


 震える指で手紙を握りしめる。

 涙は出なかった。あまりに寒く、あまりに絶望的な状況で、私の涙は枯れ果てていた。

 代わりに、胸の奥でどろりとした黒い塊が熱を帯びるのを感じた。


(ヴィクトリア……、私を陥れた者たち……。あなたたちが笑っている間、私はこの寒さの中で、あなたたちの名前を刻み続ける)


 私は泥にまみれた顔を上げ、北の空を見据えた。

 そこには、アルトリアの柔らかな春など微塵も感じさせない、重く垂れ込めた灰色の雲が広がっていた。


 ◇


 ノルトヴァルト帝国の北端。

 そこは「永遠の冬」が支配する土地だった。

 木々は白銀の霧に包まれ、足を踏み出すたびに雪が膝まで埋まる。

 薄いドレス一枚で放り出された私の体は、とうに感覚を失っていた。


「……あ、……あ……」


 喉が凍りつき、声も出ない。

 視界が白く霞む。

 父の友人が本当にここにいるのか、そもそもこの森から生きて出られるのか。

 意識が遠のき、雪の上に倒れ伏したとき、視界の端に黒い影が映った。


「……ほう。ロベルトの娘か」


 低く、しかし驚くほど透き通った声だった。

 見上げると、そこには黒いローブを纏った長身の男が立っていた。

 灰色の髪に、鋭い青灰色の瞳。彼は私を見下ろし、まるで品定めをするかのように目を細めた。


「十二歳の小娘が、この霧の中を一人で歩いてきたというのか。……死に損ないめ」


 男――ヴォルフガング・フォン・アイスベルクは、冷淡に言い放った。

 助けてくれる、という温かさは微塵もない。彼の周囲の空気は、雪原よりもさらに冷たく張り詰めていた。


「……お……願い……します……」


 震える手で差し出した銀の紋章を、ヴォルフガングはゆっくりと受け取った。しかしその目は紋章ではなく、私の瞳をじっと覗き込んでいた。


「復讐か」


 その一言に、私は弾かれたように顔を上げた。

「そうだ。その眼だ。絶望に塗りつぶされた中にある、消えぬ憎悪。……面白い。単なる被害者であれば、ここで凍え死ぬのを待つつもりだったが」


 彼は無造作に私の腕を掴み、引きずり上げた。

 彼の体温は感じられない。まるで氷の塊に触れているかのようだった。


「貴様が持っていた『エリアナ』という名は、この雪の下に埋めていけ。今日から貴様は、私の道具だ。魔法という名の刃となり、己を裏切った世界を切り裂くための……冷たい鉄になれ」


「……はい、師匠マスター


 私は枯れた声で応えた。

 その瞬間、私の中の「エリアナ」という少女は、確かに死んだのだ。


 ◇


 ヴォルフガングの住居「氷霧の館」は、生きた心地のしない場所だった。

 石造りの館内は外気と変わらぬほど冷え切っており、暖炉の火さえも青白く、熱を放たない。


「魔法とは、意志の力だ。自然界に漂う魔力を、己の意志という型に流し込む作業に過ぎん」


 翌朝から、地獄のような修練が始まった。

 食事は最低限。睡眠も数時間。

 それ以外の時間はすべて、凍てつく湖のほとりで、冷たい水を操る感覚を叩き込まれた。


「水は形を変える。氷となりて敵を貫き、霧となりて敵を惑わす。だが、芯にあるのは冷徹な拒絶だ。お前の心に、他者を容れる隙間を作るな」


 ヴォルフガングの教えは過酷を極めた。

 水属性の魔法適性があった私だが、彼の要求するレベルは常軌を逸していた。

 極寒の中で水を凝固させ、針のような氷の矢を放つ。その際、指先が凍傷で裂けようとも、彼は一瞥もくれない。


「剣を抜け。魔法だけに頼る魔術師は、間合いを詰められれば肉塊に過ぎん」


 魔法の修練が終われば、次は剣術だ。

 祖父から教わったヴェルナー流の型を、ヴォルフガングは容赦なく破壊していった。

「それは守るための剣だ。そんな甘い型は捨てろ。復讐者の剣は、ただ一撃で命を刈り取るためにある」


 木剣が私の体に叩きつけられる。

 床に転がり、肺から空気が漏れる。

 それでも、私は立ち上がった。

 立ち上がるたびに、私の脳裏にはあの日の光景が蘇る。

 ヴィクトリアの嘲笑。

 アレクシス様の悲しげな瞳。

 そして、私を「罪人」として追放した故国の空。


(まだだ……まだ、死ねない。私は、すべてを奪われた。ならば、奪い返す力を手に入れるまで。この心さえも、氷に閉じ込めてしまえばいい)


 月日が流れるにつれ、私の魔法は変質していった。

 元来、清らかで癒やしを象徴するはずの水属性。

 しかし、私が放つそれは、触れるものすべてを死の静寂へと誘う「氷霧」へと変わっていった。


「……ようやく、形になってきたな」


 ある夜、ヴォルフガングが月明かりの下で独り言ちた。

 彼の瞳には、かつての冷淡さとは異なる、奇妙な期待の色が混じっていた。


「エリアナ。お前の内にあるのは、復讐という名の黒い太陽だ。だが、忘れるな。氷は硬ければ硬いほど、一点を突かれれば脆く砕ける。……いつか、光を求めるときが来る」


「光など、いりません」


 私は冷たく言い放った。

 手元の水球を瞬時に凍らせ、複雑な多角形の氷晶へと変えてみせる。


「私は氷でいい。誰にも触れられず、誰の体温も受け付けない、冷酷な氷で。……あの国を、あの人々を、私が味わったのと同じ絶望の底へ引きずり下ろす。そのための力さえあれば」


 私の翠玉色の瞳からは、もはや幼い少女の光は消え失せていた。

 鏡に映る自分は、銀の髪をなびかせ、氷のヴェールを纏った死神のようにさえ見えた。


 十二歳の春に放逐された少女は、北の地の凍てつく闇の中で、静かに、しかし確実に「復讐者」へとその姿を変えていった。


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