母と祖母
ヘッドギアを外すと、現実の重みが体に戻ってくる。視界は相変わらず、深い闇に閉ざされたままだ。けれど、数時間前まで感じていたあの虚無感とは少し違う。指先にはまだ、薙刀の柄の感触や、宿屋の柔らかなシーツの温もりが微かに残っていた。
窓を開けると、ふわりと、鼻腔を揺らす匂いがした。線香の残り香。そして、どこか鋭さを孕んだ、出汁の濃い煮物の匂い。離れに住む祖母が、母の仏壇へ供えるために作ったものだろうか。その匂いは、私にとっていつも喉の奥がキュッと締まるような緊張感を連れてくる。
「奏、起きたのかい?ご飯ができてるよ」
扉の向こうから父の声がした。うん、と簡単に言葉を返し、窓を通して侵入してくる匂いから逃げるようにして食卓へ向かった。今日の夕食は、父が作った肉じゃがだ。祖母の料理のような「正しさ」や「鋭さ」はないけれど、私にはこの少し甘すぎる匂いの方が安らぎを与えてくれる。
「どうだった、その……『天神七代記』は。少しでも、景色を楽しめたかい?」
父の声には、隠しきれない期待が混じっていた。八歳で光を失った娘に、最新技術でもう一度、青い空や色鮮やかな花々を見せてやりたい。その親心が痛いほど伝わってきて、私は箸を止めた。
「お父さん。私、目は見えないままプレイしてるの」
一瞬、空気が凍りついた。父が息を呑む音が、静かな部屋に大きく響く。
「……なぜだい。せっかく目が見える世界へ行けたというのに。不自由じゃないのかい?」
「不自由だよ。でもね、ゲームの中でも目が見えない自分から逃げたら、私、一生自分を好きになれない気がしたの。だから、視覚は消したままプレイすることに決めたんだ。さっきも、一人でカピバラみたいな怪物を倒したんだよ」
私が努めて明るく言うと、返ってきたのは沈黙だった。やがて、ぐすっ、という鼻をすする音が聞こえた。父が泣いている。温厚だが、厳格であり、人前で泣いているところなど見たことがなかった。
「……奏。お前は本当に、母さんにそっくりだ」
父の声は震えていた。
「母さんも、あんなに歌が上手くて、華奢だったのに、芯だけは誰よりも強かった。困難な道ほど、『こっちの方が面白いわ』って笑って進んでいく人だった。……そうか。奏は、母さんの強さも受け継いでいたんだな」
「強さ……」
そう呟くと、脳裏に一人の厳しい女性の姿が浮かんだ。離れに住む、祖母だ。かつて私に薙刀を叩き込んだ人。八歳までの私にとって、祖母の薙刀で風を切る音は、何よりも誇らしく、憧れの対象だった。けれど、事故で私が光を失ったあの日から、祖母との時間は止まったままだ。
――『眼を失った者に、東堂家の技を継ぐ資格はない』
彼女が放ったその言葉は、暗闇の中にいた私の心を、「見えない事実」よりも遥かに削り取った。以来、同じ敷地にいながら、私たちは言葉を交わすことすらほとんどなくなってしまった。私がゲームの中で、薙刀を手に取ったのは、幾ばくかの意地もあったのだろう。
「お母さんはね、よく歌を歌ってくれたよね。暗闇の中で怖かった時、お母さんの声だけが私を現実に繋ぎ止めてくれた」
父の頷く気配がした。
「ああ、母さんの歌声には不思議な力があったな。奏、お前がその道を選んだのなら、きっと母さんも喜んでくれるはずだ」
記憶の中の、母が遺してくれた歌。それは、光のない私の世界に、確かな色と温もりを与えてくれていた。思えば、あの事故以来、私が自分を失わずにいられたのは、耳の奥に残るあの旋律を、暗闇の中の灯台のように信じてきたからだ。
再び、離れの静寂を思った。祖母にとって、武道とは見えなければできるわけがない、という峻烈な世界なのだろう。けれど、母が教えてくれた歌の世界は違う。形がなくても、目に見えなくても、心に直接触れてくる温かさがあった。
祖母に認められたいわけじゃない。ただ、彼女が「価値がない」と断じたこの暗闇の中で、母の歌と共に生きる私の姿を見せつけたい――そんな小さな、けれど確かな反抗心が胸の奥で熱を帯びた。
(……待って。あの女の人、そんなこと言ってたような)
記憶の糸が、バラバラだった音の羅列を繋ぎ合わせていく。『言霊の階』。そのギルドに属する、歌と詩のランク。
――『吟遊詩人』。
「お父さん。私、もう一度行ってくる」
食べ終えた食器を片付け、私は迷いのない足取りで自室へと戻った。仮想の世界で手に入れる擬似的な母の力が、今の私の、この凍りついた現実をも溶かしてくれるのではないか。あの離れで沈黙を貫く祖母との、止まったままの時計の針さえも、動かせるようになるのではないか――。
そんな微かな、けれど確かな成長への予感に胸を震わせながら、慣れない手つきで再びヘッドギアを装着した。
――――
パチパチと薪が爆ぜる安らぎの灯火で目を開けた。私はベッドから跳ね起きると、薙刀をひっつかみ、宿の廊下を抜けた。
先刻、私をギルドへと導いたのは、耳を劈くような金槌の鋭い金属音だった。あの時は、その一点の音を必死に手繰り寄せなければ、私は自分の位置さえ見失いそうになっていた。けれど、夜の帳が下りたアスカのあちこちから聞こえてくるのは、それとは質の違う、落ち着きのある音の重なりだ。
一日の冒険を終えた者たちが酌み交わす杯の触れ合う音、艶のある木管楽器の音色、そして、幾重にも重なる話し声。そこかしこで生じる音たちに、私を迷わせる力はない。周囲の音を楽しみながらでも、私は冒険者ギルドの前に立っている。
冒険者ギルドの扉を勢いよく開ける。向かう先はただ一つ。あの涼やかな声の持ち主がいる受付だ。
「お待たせしました。サブランク、決まりました!」
荒々しい私の唐突な宣言に、受付の女性が小さく驚いたように息を呑む気配がした。しかし、そんなそぶりを感じさせず、相変わらず涼しげな声で答えた。
「承りました。それでは、ご希望のサブランクをお聞かせください」
「サブランクは吟遊詩人。ギルド『言霊の階』への加入を希望します」
ギルドの喧騒を切り裂いて真っ直ぐに受付へ届ける。脳裏をよぎったのは、病室の湿った空気の中で、私の手を握りながら言った母の言葉だ。
――「奏。目が見えないのは欠点ではないわ。考え方、使い方で人生を良くも悪くもする。心の使い方が一番大事なのよ。」
「カナデさん、おめでとうございます。今日から一人前の冒険者ですね」
お母さんの遺した言葉と、女性の涼やかな声とが重なり合い、心に深く沈み込んでいき、静かな昂揚感を覚える。次に答えたのは、受付の女性ではなくシステムだった。
《サブランク:吟遊詩人。受諾しました。吟遊詩人固有スキル『大地の讃美歌』を習得しました。効果時間中、プレイヤー自身のLUK値に補正をかけます》
――
「……ふう」
深い溜息とともに、全身から力が抜ける。それまで張り詰めていた集中力が、潮が引くように消えていった。
《これにてチュートリアルを終了します。カナデ、このまま初心者向けフィールド『真宵の竹林』へ向かわれますか?》
「今のでやっとチュートリアルなんだ……。ううん。行きたいのは山々なんだけど、流石に今日はもう無理。限界!」
システムの無機質な問いかけに、私は苦笑まじりに答えた。体と頭をフル回転させた数時間。私の脳はもう、これ以上の新しい情報を処理できそうにない。
「今日はここまでにさせて。また明日、ちゃんと来るからさ」
返事はない。けれど、どこか満足げな沈黙を感じながら、私は「ログアウト」と呟く。耳の奥に残る、宿屋の焚き火の音と、母の穏やかな声。それらを大切に抱えたまま、私の意識はゆっくりと、静かな現実の眠りへと沈んでいった。




