魚と痛み
「じゃ、場所変えよっか」
サクヤに連れられて転移した先は、水音が絶えず響く渓谷だった。
足元は滑らかな岩場で、水が薄く張りついている。
空気はひんやりとしていて、肌にまとわりつく湿気がやけに鮮明に感じられた。
「ここは『飛沫の渓谷-雨乃香和』。レベル帯的にも今のカナデちゃんにちょうどいいかな」
「……なんか、寒いですね」
肌を触れる空気がやけに冷たく感じる。
「でしょ?それも触覚の影響だよ。このエリアでも寒く感じるなら雪エリアは凍えちゃうかもね、あはは」
笑いどころじゃない。
服越しに感じる水気がやけに生々しくて、現実よりもはっきりと存在を主張してくる。
私は無意識に腕をさすった。
「さて、と。まずはあそこに立って」
サクヤが指を指すのは、水辺の中央に向かう細い道の先。
指示された通りに、歩を進める。
「ここ、ですか?」
私がつくや否や、来た道が水でさぁーっと覆われてしまった。
360度が水に囲まれた。
「そう。そこから動かないでね」
「……嫌な予感しかしないんですけど」
「大丈夫、大丈夫。死にはしないから」
信用ならない。
しかし、ここまで来て従わない理由もない。
私は言われた通り、岩場の中央に立った。
数秒の静寂。
――チャプン。
水面が揺れる音。
次の瞬間。
ヒュッ――!
「っ!」
何かが高速で迫ってくる。
考えるよりも先に、体が横へ流れるように動いた。
バシャッ!
水飛沫が弾ける。
「……今の、魚?」
「そ。水刃魚。突進して当て逃げしてくる雑魚敵」
なるほど。確かに速い。でも――
「避けられますね」
「うん、今はね」
サクヤの声が妙に含みを持っていた。
その意味は、すぐに理解することになる。
――ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ。
連続で水を裂く音。
2体、3体。
数が増えている。
私は足を捌き、体をひねり、次々と回避していく。
当たらない。
全部、避けられる。
水の揺れ。空気の裂け方。
触覚がそれを拾って、頭が気づいた時には体が勝手に反応している。
(これが触覚特化……)
ほんの少し、楽しくなってきた。
――その瞬間だった。
ヒュッ――ヒュヒュッ――ヒュッ!!
「えっ、ちょっ――」
一気に数が増えた。
エコーロケーションの四方八方から魚が同時に飛んでくる。
体が動く。
避ける。
でも――
間に合わない。
ドッ――!
「っあぁ!?」
脇腹に衝撃。
その直後。
ズキン、と焼けるような痛み。
「いっ……!!」
息が止まる。
ただの体当たりのはずなのに、鋭い痛みが神経をなぞる。
「ほらね。当たるでしょ?」
「な、なんですかこれ……っ!」
思わずその場で膝をつきそうになる。
こんな痛み、ゲームで感じるものじゃない。
でも、現実とも違う。
逃げ場がない。
――ヒュッ!
「っ、また……!」
避ける。
避ける。
でも。
ドッ! ドッ!
「あ、ぐっ……!」
2発、3発。
連続で当たる。
痛い。
痛い痛い痛い。
体が強張る。
動きが鈍る。
――さらに当たる。
「やっ……もう……!」
思わず体を丸めて、最大限の防御の姿勢をとる。
その瞬間、サクヤの声が飛ぶ。
「逃げるな!」
「っ!」
「殻にこもっても意味ないでしょ!」
無理に決まってる。
こんなの、耐えられるわけがない。
そう思った瞬間――
ドッ!
「ぁ……っ!」
今度は肩。
さっきより、痛い。
なんで。
なんでこんなに痛いの。
呼吸が浅くなる。
頭が白くなる。
逃げたい。
ここから離れたい。
「……カナデちゃん」
サクヤの声が、少しだけ低くなる。
「それが“普通”のプレイヤーが避けたがる理由」
「……っ」
「でも、カナデちゃんはそれ選んだんだよ」
ほぼ強制だったじゃない!
そう言い返したい。
でも、言い返せない。
私は自分で選んだ。
他人にステータスを決定づける権利を与えることを選んだ。
逃げたくない。
でも、痛い。
どうすればいい。
――ヒュッ!
「……ッ!」
来る。
来るのはわかるんだ。
ちゃんと視えている。
右から2体、左から1体。
正面――1体。
全部避けるのは無理。
じゃあ、どうする。
(当たりたくない)
その一心で、体が動いた。
最小限の動きで2体を躱す。
残り1体。
避けきれない。
なら――
ギィンッ!
薙刀の柄で弾く。
衝撃が手に伝わる。
痛い。
でも、さっきよりマシ。
「……あ」
「そう、それ」
サクヤの声が少しだけ明るくなる。
「全部避ける必要ないでしょ?」
なるほど。
避けるだけじゃない。
受ける。
捌く。
選ぶ。
――ヒュヒュッ!
また来る。
今度は、少しだけ冷静に見える。
避ける。
1体。
受ける。
1体。
残り――
「っ!」
判断が遅れた。
ドッ!
「ぐっ……!」
痛い。
でも。
(さっきより、マシだ)
呼吸を整える。
足を踏ん張る。
薙刀を構える。
「……まだいけます」
「いいね。魚たちは待ってくれないからね」
サクヤが楽しそうに言う。
「避ける・受けるに加えて、倒すも入れてこっか」
「……は?」
「数、減らさないと無理でしょ?」
その通りすぎる。
――ヒュッ!
来た。
今度は。
避ける。
1体。
薙刀を振る。
ザンッ!
水飛沫と一緒に、魚がポリゴン状に弾ける。
「……できた」
「でしょ?」
でも。
その直後。
ヒュヒュヒュッ――!
「うわ、増えてる……!」
「時間経過で増える仕様だからねー」
鬼か。
いや、魚だけど。
でもやるしかない。
避ける。
受ける。
叩き落とす。
また来る。
また来る。
痛い。
でも。
避ける。
受ける。
倒す。
――繰り返す。
何度も。
何度も。
何度も。
膝が震える。
腕が痺れる。
でも、動ける。
まだ動ける。
――気づけば。
「……30」
口から数字が漏れた。
30体。
それでも――
私は、立っている。
避けている。
捌いている。
そして、倒している。
最後の1体を叩き落とした瞬間。
水面が静かになる。
静寂。
荒い呼吸だけが残る。
「……はぁ……っ、はぁ……」
「おつかれ」
サクヤの声が近づく。
「今の、全部捌けてたよ」
その言葉に、ようやく実感が追いつく。
最初は、1体で限界だったのに。
今は30体。
痛みは消えない。
むしろ、ずっとそこにある。
「どうだった?」
サクヤがあっけらかんとした口調で聞いてくる。
「……体が勝手に避けてくれるんですけど、避けた先に魚がすでにいることがあって……。見える範囲で何を避けて、何を倒すべきなのか先読みすることが大事なんですね」
自然と口が動く。
「大正解!システムはあくまでサポートに過ぎない。それを活かすも殺すもプレイヤー次第!カナデちゃん、よくなってきたよ」
サクヤが大きく笑う。
私はゆっくりと薙刀を握り直す。
手のひらの感触が、やけに鮮明だ。
「……もう一回、やっていいですか?」
「そう来なくっちゃ」
サクヤが楽しそうに言う。
「じゃあ次は、動きながら同じことやろっか」
「えっ」
「止まってできるなら、動いてもできるよね?」
この人、本当に容赦がない。
でも。
ほんの少しだけ。
悔しいけど。
「……やります」
私は一歩、前に踏み出した。
痛みは、消えない。
でも、それ以上に。
強くなりたいという感情の方が、強くなっていた。




