サクヤ視点 「伍」
彼女は視界を切っている。
だけど、何かしらの力で見ることはできているはずだ。
そりゃそうだろう。
完全に真っ暗闇でどうやってプレイしろって話だ。
一部界隈では攻略不可能なクソゲーと揶揄されるGOIもそこまで鬼畜ではないだろう。
俺の予想では、おそらく一定の範囲をシステムが補助し、視界に似た何かを見ているはずだ。
彼女がエリアに入ってから俺に気づくまでの間隔から逆算すると、その範囲はおよそ7〜10メートル。
大雑把だが、あまりにも外れているとは思わなかった。
俺は、隠密スキルを使って、彼女の見える範囲から身を出すことにした。
――
視界はクリアだ。隅々までフォーカスが合い、色彩は鮮烈に脳を叩く。
このGOIという世界が提供してくれる完璧な「視覚」は榊原拓也にとって、麻薬的な救いだった。
だが、彼女の放った言葉が、胃の奥に鉛を流し込まれたように重く居座っている。
――逃げたくなかった。
――ここで逃げたら、自分を二度と好きになれない気がして。
「……反吐が出る」
自嘲気味に呟いた言葉は、自分自身に向けたものだ。
俺は逃げた。サングラス越しにしか見えない歪んだ世界から。
パンチを打つたびに視界が揺れ、恐怖に震える現実から。
ここなら、俺は最強のボクサーとしての感覚を維持したまま、強者でいられる。
彼女を見ていると、自分の臆病さが鏡のように突きつけられる。
それが、たまらなく癪だった。
(さっさとログアウトして、寝よ)
嫌なことは忘れるに越したことはない。
そうすれば、あんなビギナーのソロプレイヤーと二度と関わることなどない。
忘れよう。
――
そう思っていたはずなのに、俺は彼女の帰りをスコープ越しに待っていた。
(いい大人がやつあたりなんてみっともねえな)
ライフルの先で、翡翠石を掘り終えたであろう満足そうな彼女の姿を捉えた。
「ごめんね、カナデちゃん」
ゆっくりと引き金を引く。
弾が出る寸前。
音が響く直前。
彼女は銃の斜線から身を翻すように逃げた。
ドンッ!
一〇八式狙撃銃 改+++がエリア内に響く銃声を奏でた。
彼女の頬を掠めるようにして、弾丸は地面に突き刺さった。
(今、攻撃の前に避けたよな!? スキルか?)
彼女は俺のいる方向に薙刀を素早く向けてきた。
突然、銃で撃たれて、敵がどこにいるかさえ曖昧なのにすぐさま反撃の意思を見せる。
「……本当に初心者かよ」
俺にしか聞こえないであろう賞賛の声が漏れる。
ここまできたら意地だ。
彼女の存在を否定する。
それでしか俺の存在を肯定できない。
俺は彼女の前に姿を見せることにした。
――
「カナデちゃん、何で避けられたのー?」
純粋な好奇心からくる質問だった。
これまで俺の狙撃を避けたやつなんていなかった。
いや、聴覚特化のプレイヤーが800メートル離れる俺の銃を構える音を聞いて、撃つ前に逃げられたことならあったな。
「今のサクヤさんですか?」
カナデは俺の質問に答えない。
「あはは、質問に質問で返さないでよ」
多少、苛立ちを含んだ声を返す。
「……サクヤさん、ですよね」
(この子、想定以上に芯の強い子だな)
ゲーム初心者がいきなりPK狙われたら、もっと焦るもんだ。
こんなふうに敵プレイヤーとゆっくり相対して話すやつなんていない。
俺は彼女の間合いと想定される7メートルの範囲に足を踏み込みながら、答える。
「正解。でも、ますます謎だなあ。スキル? それとも……リアルでそういう訓練でも受けてるの?」
自分で聞いておいて、ありえないと思う。
リアルでそういう訓練ってなんだよ。
ないない。あるわけない。
さっきのは100%スキルによるものだ。
だけど問題は、俺がそのスキルを知らないってこと。
(特殊ルートでの入手方法か、あるいは――)
俺の思考を強制終了させるように、彼女は苛立ちを剥き出しにして口を開いた。
「……何の真似ですか。手伝ってくれるんじゃなかったんですか?」
あんな口約束を信じていたのか。
本当に不思議な子だなあ。
「ああ、計画変更!実はカナデちゃん、俺らのクランからPK依頼が出てるんだよね。最近、初心者プレイヤーが未発見のイベントやアイテムを見つけまくってるって噂だからね。聞いたことない?」
サーマルビジョンが切れたタイミングで彼女がクラン内のPK対象であることはわかっていた。
だけど、俺の流儀からターゲットとして認識していなかった。
それに、なんだかんだ命の恩人だしね。
「これまで倒そうとすれば、いくらでもそのチャンスはあったんじゃないですか?」
カナデの言う通りだ。
俺にPKする意思があれば、蔦に吊るされた状態でもできた。
「俺は初心者を狙うようなコスい真似したくないんだよねー。だから、キミが噂のカナデちゃんって気づいても見逃すつもりだったんだよ。俺って優しいでしょ?」
本心だった。だが、彼女の瞳の奥に宿る強さが、俺の肺を圧迫する。
彼女も、俺と同じはずだ。いや、もしかしたら俺よりも辛い状態なのかもしれない。
暗闇の恐怖、色彩を失った絶望、他者の憐れむような視線。
俺と彼女はその感覚を分かち合える存在のはずだ。
それなのに、この少女はあえて自分に縛りを課したまま、逃げないと断言した。
眩しすぎる。その高潔さは、高性能な視覚に縋り付いて最強を演じている俺の姿を、惨めで、矮小なただの「敗北者」として照らし出してしまう。
――認められるわけがない。
彼女が正しいのだとしたら、俺が積み上げてきたこれまでがただの卑怯な逃避行になってしまう。
君を尊敬している。同時に、反吐が出るほど恐ろしい。
彼女を否定し、その心をへし折らなければ、俺は自分自身を保てない。
「でもね、失った感覚をゲームで補強することが逃げだって言われちゃあ、黙っていられなくてね。これは完全に個人的な恨みみたいなもんかな、ごめんね」
彼女が薙刀を低く構え直す。
その所作一つに無駄がない。
頬を掠めた弾丸の熱も、高鳴る鼓動も、彼女にとっては恐怖ではなく集中のためのガソリンになっているようだった。
「私の発言が気に障ったのなら謝ります。すいませんでした。――でも、見逃してはくれないんですよね」
「当たり」
努めて軽く、いつもの軽薄なトーンで返す。
だが、内心は穏やかじゃない。
彼女の間合い。
そこはボクサーだった俺にとって、最も得意で、最も残酷な距離だ。
「でも、銃を使うってことは近距離は苦手なんじゃないんですか。もう私の間合いですよ?」
思わず口角が上がる。
可愛いこと言ってくれるじゃないか。
「ああ、これ? ご忠告どうも」
ライフルをストレージに放り込むと同時に、俺は地を蹴った。
踏み込みの鋭さには自信がある。
一瞬で腕一本の距離まで肉薄する。
(これでも、日本の至宝と呼ばれたんだよ)
過去の栄光を振りかざすように、まずは挨拶代わりのローキック。
脛を狙った一撃は、並のプレイヤーなら反応すらできないはずだった。
――バチューン!
重い衝撃音が響く。驚いた。
彼女は反射的に左足を一歩引き、薙刀の柄で俺の蹴りを殺しやがった。
(マジかよ。初見でこれに反応するか?)
驚愕を飲み込む暇もなく、彼女のカウンターが飛んでくる。
薙刀の側面打ち。俺の右頭部を正確に狙った軌道だ。
後ろに飛び退き、鼻先で風を切る。
刹那、引き戻された腕が蛇のように伸びてきた。
喉元への突き。
現実なら死んでいる。その確信に裏打ちされた、迷いのない一撃。
だが、悪いな。俺もこれに人生を賭けてきたんだ。
紙一重のヘッドスリップで躱す。
驚きに目を見開いた彼女の隙を逃さず、俺は宙ぶらりんになった薙刀の柄を、アッパーの要領で突き上げた。
ガラ空きになった胴体。
そこに、かつてリングで何度も放った、魂の左ボディを叩き込む。
「――ッ!?」
乾いた音がして、彼女の体が折れた。
GOIのシステムが痛みとして脳にフィードバックを送っているはずだ。
膝をつき、必死に呼吸を繋ごうとする彼女を見下ろす。
「カナデちゃん、強いねえ。初心者でしょ? まさか俺のローキックが初見で見切られるとは思わなかったよ。しかも、カウンターで二撃も入れてくるし」
口から出るのは賞賛の言葉だ。
けれど、内面では汚泥のような感情が渦巻いている。
痛みに悶絶する彼女を見れば、少しはすっとするかと思った。
俺の「補強された感覚」が、彼女の「逃げない意志」より勝っていると証明できれば、この不快な劣等感から解放されると思った。
なのに、どうだ。
震える足で立ち上がる彼女を見て、俺は背筋が凍るような思いがした。
「うわっ! もう立てるの!? フツー数分は悶絶して立てないはずなんだけどなあ。ちょっと自信無くすなあ」
軽口でも叩かなければ、俺の自尊心は今にも折れてしまいそうだった。
この子は、痛みに耐えているんじゃない。
暗闇の中で、逃げ場のない現実の中で、こうして何度も立ち上がることを繰り返してきたんだ。
その精神力の強靭さは、サングラスの裏に逃げ込んだ俺なんかとは、積んでいる覚悟が違う。
彼女を否定したい。
けれど、否定すればするほど、彼女の輪郭が鮮明に、高潔に輝き出す。
ああ、もうダメだ。
俺の負けだよ。
自分より矮小な存在だと証明したかったのに、結局、彼女の強さに惚れ込んでいる自分がいる。
この子を壊したくない。
でも、このまま終わらせて、二度と会えなくなるのも嫌だ。
張り詰めた緊張感が、俺の中でぷつんと切れた。
自分でも呆れるくらい、唐突に別の答えが弾き出される。
「見逃してあげる」
「え?」
「だからー、見逃してあげるって。でも、条件がひとつある。――俺と付き合ってよ」
「は?」
呆然と立ち尽くす彼女。
当然の反応だ。
でも、これが一番合理的で、一番自分勝手な俺の妥協点だった。
彼女を否定できないのなら。
彼女の隣にいて、その逃げない強さを、特等席で見せてもらうことにしよう。




