日常と非日常
アスカへ向かう。
そのつもりだった。が、ログに表示された数字は、すでに8時間を超えていた。現実の体が悲鳴を上げるような倦怠感の正体はこれか、と妙に納得してしまう。というか、お父さんよく起こしにこなかったな。
「少しはゲーマーに近づいたかな」
と自虐的に独りごちながら、私の足は迷わずハツセの格安宿へと向い、150ゼニーを支払い、ベッドへダイブしゲームから意識を手放した。
――
ピピピ、と規則正しく鳴るアラームの音が、現実の私を叩き起こす。どうやら、ゲームから戻った後すぐに眠りこけてしまったらしい。瞼を開けて、ここが私の現実であり、日常であることを認識する。
「……ふぅ」
起き上がり、大きく伸びをする。
東堂家の朝は早い。
階下からは、父が朝食の支度をする微かな包丁の音が響いてくる。その音に合わせてリズム良く階段を降りる。
「おはよう、奏。昨日はずいぶんと長くゲームしていたようだね」
父の言葉に皮肉めいた雰囲気はなく、純粋に私が何かに熱中できていることを喜んでいる様子だった。
「おはよう、お父さん。想像よりすっごい楽しめてるよ」
何気なく返したつもりだったが、普段よりも弾んでいたのか、私の声を聞いた父は「そうか、そうか」とご満悦だ。食事を終え、リビングに進むと出迎えてくれたのは盲導犬――ラブラドール・レトリバーのルナだ。私の足音を聞きつけた彼女は、タシタシと床を叩き、鼻先を私の膝に押し付けてくる。
「おはよ、ルナ。今日もかわいいね」
ルナの背中に手を置く。短く整えられた毛並みの下に、力強い筋肉の鼓動と、生きている者の確かな熱を感じる。私はブラシを手に取り、ゆっくりと彼女の体を整え始めた。
「……ねえ、ルナ。私、昨日ね、大きな蛇と牙を持つ化け物と戦ったんだよ」
ブラッシングの心地よさからか、ルナが「ふんっ」と鼻を鳴らす。
「すごく怖かったけど……でもね、負けたくないって思ったの。そしたら、いろんな力が湧いてきてね。なんとか頑張れたんだ。……現実でも頑張れるかな、私」
と、ルナにだけ聞こえるような小さな声で零した。ルナは何も言わないけれど、私の手の動きに合わせて体を預けてくる。その重みが「大丈夫だよ」と支えてくれている気がする。
夏休みに入った今、ルナと外出する機会はほとんどない。私にとって外に出るという行為は、ちょっと小腹が空いたからコンビニへ行くとか、欲しい服があるから電車で都会に赴くとか、そんな日常に付随するものではなかった。私にとっての日常は家という狭い空間で毎日同じルーティンをこなしていく。ただそれだけ。
点字ブロックの凹凸を確認し、信号の音に耳を澄ませ、周囲から向けられた視線が、チクチクと肌を刺すような重みを持って迫る。神経をすり減らしてたどり着く目的地に、心躍ることなんて一度もなかった。
外に行ったって、何も見えないんだから……意味ないよ。
そう自分に言い聞かせるのは、傷つかないための防衛本能だったのだと思う。外の世界に期待しなければ、何も見えない自分に絶望することもない。内向的な殻の中に閉じこもっている限り、私は安全だった。
けれど、昨日のあの戦いが、私の殻を粉々に砕いてしまった。
――『こいよ、化け物おおお!』
死に物狂いで叫び、獠牙に一矢報いたあの瞬間。視力がないから仕方ない。見えないから動けない。そんな言い訳を並べていた現実の自分を、あの雷光のような一撃が牙もろとも焼き払ったのだ。
再び、離れに住む祖母の厳しい声が脳裏をよぎる。
――「負けるのに仕方がないなんてことはないんだ。負けたときに言い訳を用意するんじゃない。負けたときは全力を出して負けた、そう胸を張れるようになりな。――あんたは全力を出し切ったのかい?」
「……全力を、出し切りたい」
リビングを出て、玄関へ向かう。私の決意を察したように、ルナが爪で床を鳴らす軽やかな音とともに付いてくる。
使い込まれたハーネスの感触を指先で確かめながら、ルナの体に回す。カチャリ、と小気味良い金属音が玄関に響く。すると、後ろから父が「どこか行くのかい?」と驚いたように声をかけてくる。
振り返り「ちょっとだけ散歩してくる。すぐ戻るよ」と微笑みながら返す。スリップオンできるスニーカーを履き、くたびれた玄関を開ける。
「よし、行こうルナ」
と、ルナの背中をトントンと2回叩き、私はほんの少しだけ非日常へと足を踏み出した。




