3.「好きだからパンを焼いてるのさ」
母の予想通り、翌日、セシリアが母と共にマーサの家を訪ねると、「いくらでもいていいよ!」と扉を開けてくれた。母は「セシリアをよろしくね」と手を振って、屋敷へ帰っていった。
「婚約解消ねえ。そりゃ災難だったね」
事情を聞いた叔母のマーサは、それだけ言って焼きたてのパンをセシリアの前に置いた。
「ほら、食べな」
「……はい」
ちぎって口に入れると、まだ温かい。ふわりと小麦の香りが広がった。
「美味しい……」
「そうだろ?」
マーサは満足そうに笑った。
もっと慰められるか、事情を詳しく聞かれるかと身構えていたセシリアは、拍子抜けした。
叔母はそれ以上、何も聞かなかった。
「二階の奥が空いてるから、好きに使って。朝は早いから、寝坊しても起こさないけどね」
「ありがとうございます」
――翌朝。
セシリアが目を覚ますと、一階から物音が聞こえてきた。
着替えて下りていくと、マーサはすでに厨房でパンを作っていた。
「おはようございます」
「おはよう! 適当に食べて、好きにしてていいよ!」
セシリアは食卓に置かれたパンを食べてから、お茶を飲んで息をついた。
(……何を、したらいいかしら)
好きにしていいと言われたものの、何をしていいのかがわからなかった。
(お掃除や……何か、できることをやらないと……)
そう考えて家を見回すものの、マーサの家は整えられていて、掃除の必要はなさそうだった。
セシリアは立ち上がると、厨房を覗いた。
マーサは大きなパン生地をこねては折り、またこねることを繰り返している。
最初はただの黄色っぽい塊だった生地が、小さく丸められ、パンの形になっていく。
その光景は、いくらでも退屈せずに見ていられそうだった。
(……それに、叔母様の顔……)
セシリアは、パン生地をこねながら額をぬぐう叔母の表情に目を奪われた。
生地を見つめる叔母の目は、きらきらと輝いていた。
形の悪い生地をひとつ見つけると、マーサは「おっと」と笑って丸め直した。
焼き上がったパンを窯から出すときには、嬉しそうに鼻を動かして香りを嗅いでいる。
(……楽しそう……)
それからも、セシリアはパンを作るマーサを眺めて過ごした。
――三日目、ひと息ついたマーサに、セシリアは声をかけた。
「叔母様……私も、パン作りのお手伝いをさせていただけますか?」
「……やってみる?」
渡されたのは、大きな塊にまとめられたパン生地だった。
叔母の真似をして両手で押す。
「……硬いですね」
「もっと体重をかけて」
「こうですか?」
「そうそう」
押して、折って、また押す。
しばらくすると腕が痛くなってきた。
額に汗も滲んでいる。
「叔母様、パンを作るのって、こんなに大変なんですね」
「毎日やってれば慣れるよ」
そう言われても、叔母のようにはうまくいかない。
力を入れすぎて粉を舞い上げ、セシリアは盛大に咳き込んだ。
「あはは。顔まで真っ白だよ」
「えっ?」
頬を拭った手にも粉がついていたせいで、余計に白くなったらしい。
マーサがさらに笑う。
セシリアも自分の手を見て――ふっと笑った。
「ひどい顔ですね、きっと」
笑いながら、また生地をこねる。
腕は疲れ、顔も服も粉だらけだ。
それなのに――
「……楽しい」
思わずこぼれた言葉に、自分で驚いた。
「なら、もうちょっとやってみる?」
「はい!」
今度は考えるより先に返事が出た。
生地をこねながら、セシリアは叔母の横顔を見た。
「叔母様」
「ん?」
「どうしてパン屋さんになったんですか?」
マーサも、王都で大きな商会を営む家に生まれた娘だ。
家業に加わることもできただろうし、裕福な商家へ嫁ぐ道だってあったはずだ。
「どうしてって……」
叔母は不思議そうな顔をした。
「パンを焼くのが好きだったからだよ」
「……それだけですか?」
「それだけじゃ駄目なのかい?」
「いえ……」
セシリアは手を止めた。
――好きだから。
そんな理由で、自分の人生を決めてもいいのだろうか。
オスカーに相応しい女性になるためでもない。
家のためでも、誰かに褒めてもらうためでもない。
ただ、自分が好きだから。
「まあ、好きなことをさせてもらえたのも、実家に余裕があるおかげだけどね」
マーサは笑ってから、店を見回した。
「それでも、最初は大きい店の下働きから始めて、この店は自分で買ったんだよ。まあ、あたしの城みたいなもんだね」
「お城……パンのお城……」
セシリアも同じように店を見回して、つぶやいた。
マーサは「ふっ」とふきだした。
「そうだね。パンの城だね。……あんたは昔から面白い子だよ……」
それからセシリアの手を軽くたたいた。
「ほら、手が止まってるよ」
「あ……はい!」
セシリアはもう一度、生地に両手を置いた。
まだ、自分が何をしたいのかはわからない。
でも今はもう少しだけ、このパンをこねていたい。
それだけは、はっきりわかった。




