10.初めて自分で言う「いいえ」
「僕と帰ろう、セシリア」
オスカーが差し出した手を、セシリアは見つめた。
この手を取れば、きっと元の生活に戻れる。
子爵家の跡取りであるオスカーの婚約者として、礼儀作法を学び、夜会へ出て、いつか彼の妻になる。
少し前まで、それが自分の未来だと信じていた。
『オスカー様のお好きなように』
そう言っていれば、間違えることもない。
自分で何かを選ばなくてもいい。
それなのに、セシリアの手は動かなかった。
ふわりと焼きたてのパンの香りがする。
店内を見回した。
棚には、今朝マーサと焼いたパンが並んでいる。
リンゴと蜂蜜のパン。
昨日試しに焼いたクルミのパン。
明日は何を作ろう。
次は、干した果物を入れてみたい。。
そんなことを考えるだけで、わくわくする。
セシリアは自分の両手を見た。
指先には、まだ白い粉が残っていた。
以前なら、人前に出る前に慌てて拭っただろう。
けれど今は、この手が好きだった。
「……いいえ」
自分の口から出た言葉に、セシリア自身が一番驚いた。
オスカーの手が止まる。
「何?」
「私は、戻りません」
「なぜだ? さっき言ったことなら謝る。今度は君のことも――」
セシリアは首を横に振った。
「あなたと婚約していた頃、私はずっと、貴族の妻に相応しい女性になろうとしていました」
「それは――」
「商人の娘だと思われたくなくて、商売の話をするのをやめました。あなたが好きなものを私も選んで、自分が何を食べたいかも言わなくなりました。話したいことがあっても、出しゃばってはいけないと思って黙っていました」
口にして初めて、自分がどれほど多くのものを手放していたのかがわかった。
「そうしていたら、私自身が、自分が何を好きなのかわからなくなってしまったんです」
「でも、僕はそんなことをしろとは――」
「はい。私はあなたのことが好きでした。――だから、あなたに相応しくなりたくて、自分からそうしていたんです」
セシリアはオスカーを見つめた。
「けれど、あなたは、そんな私と一緒にいても『つまらない』とおっしゃいました」
それからセシリアは微笑んだ。
「だから、私はあなたのもとへ戻ることを選びません。もう一度婚約しても、きっとまた同じことになるでしょう。……あなたといても、私は幸せになれないと思うからです」
今度は、違うものを選びたい。
「今は、明日は何を焼こうかと考えるのが楽しいんです。自分で作ったパンを誰かが美味しいと言ってくれると、嬉しくて」
ちらりとギルバートを見る。
目が合うと、彼は静かに頷いた。
「まだ、この先ずっとパン屋で働くのかもわかりません。ほかにやりたいことが見つかるかもしれません」
それでも。
「今は、ここにいたいんです」
オスカーは何も言わなかった。
やがて、差し出していた手をゆっくり下ろす。
「……そうか」
「はい」
「……君は、本当に変わったな」
その言葉に、セシリアは少し考えた。
「いいえ」
今度の「いいえ」は、先ほどよりずっと簡単に言えた。
「たぶん、戻ったのだと思います。……昔の私に」
オスカーは寂しそうに笑った。
「……そうかもしれないな」
それ以上、彼は何も言わなかった。
店を出ていく背中を見送りながら、セシリアは小さく息を吐いた。
不思議と、後悔はなかった。




