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【完結】婚約破棄された令嬢は、毎朝パンを買いに来る無口な騎士が自分を好きだとは知らない  作者: 夏灯みかん


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10/12

10.初めて自分で言う「いいえ」

「僕と帰ろう、セシリア」


 オスカーが差し出した手を、セシリアは見つめた。


 この手を取れば、きっと元の生活に戻れる。


 子爵家の跡取りであるオスカーの婚約者として、礼儀作法を学び、夜会へ出て、いつか彼の妻になる。


 少し前まで、それが自分の未来だと信じていた。


 『オスカー様のお好きなように』


 そう言っていれば、間違えることもない。


 自分で何かを選ばなくてもいい。


 それなのに、セシリアの手は動かなかった。


 ふわりと焼きたてのパンの香りがする。


 店内を見回した。


 棚には、今朝マーサと焼いたパンが並んでいる。


 リンゴと蜂蜜のパン。


 昨日試しに焼いたクルミのパン。


 明日は何を作ろう。


 次は、干した果物を入れてみたい。。


 そんなことを考えるだけで、わくわくする。


 セシリアは自分の両手を見た。


 指先には、まだ白い粉が残っていた。


 以前なら、人前に出る前に慌てて拭っただろう。


 けれど今は、この手が好きだった。


「……いいえ」


 自分の口から出た言葉に、セシリア自身が一番驚いた。


 オスカーの手が止まる。


「何?」


「私は、戻りません」


「なぜだ? さっき言ったことなら謝る。今度は君のことも――」


 セシリアは首を横に振った。


「あなたと婚約していた頃、私はずっと、貴族の妻に相応しい女性になろうとしていました」


「それは――」


「商人の娘だと思われたくなくて、商売の話をするのをやめました。あなたが好きなものを私も選んで、自分が何を食べたいかも言わなくなりました。話したいことがあっても、出しゃばってはいけないと思って黙っていました」


 口にして初めて、自分がどれほど多くのものを手放していたのかがわかった。


「そうしていたら、私自身が、自分が何を好きなのかわからなくなってしまったんです」


「でも、僕はそんなことをしろとは――」


「はい。私はあなたのことが好きでした。――だから、あなたに相応しくなりたくて、自分からそうしていたんです」


 セシリアはオスカーを見つめた。


「けれど、あなたは、そんな私と一緒にいても『つまらない』とおっしゃいました」


 それからセシリアは微笑んだ。


「だから、私はあなたのもとへ戻ることを選びません。もう一度婚約しても、きっとまた同じことになるでしょう。……あなたといても、私は幸せになれないと思うからです」


 今度は、違うものを選びたい。


「今は、明日は何を焼こうかと考えるのが楽しいんです。自分で作ったパンを誰かが美味しいと言ってくれると、嬉しくて」


 ちらりとギルバートを見る。


 目が合うと、彼は静かに頷いた。


「まだ、この先ずっとパン屋で働くのかもわかりません。ほかにやりたいことが見つかるかもしれません」


 それでも。


「今は、ここにいたいんです」


 オスカーは何も言わなかった。


 やがて、差し出していた手をゆっくり下ろす。


「……そうか」


「はい」


「……君は、本当に変わったな」


 その言葉に、セシリアは少し考えた。


「いいえ」


 今度の「いいえ」は、先ほどよりずっと簡単に言えた。


「たぶん、戻ったのだと思います。……昔の私に」


 オスカーは寂しそうに笑った。


「……そうかもしれないな」


 それ以上、彼は何も言わなかった。


 店を出ていく背中を見送りながら、セシリアは小さく息を吐いた。


 不思議と、後悔はなかった。


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