9.「あなたが決めることです」
「……そういうことか」
オスカーの声に、セシリアは振り返った。
彼は先ほどまでとは違う、険しい表情をしていた。
「どういうことですか?」
「クロウ伯爵と親しくなったから、僕との婚約には戻れないということだろう?」
「え?」
「僕と婚約を解消した途端に、伯爵と――」
「違う」
低い声が、オスカーの言葉を遮った。
ギルバートだった。
「私は彼女に、何も申し込んでいない」
セシリアもオスカーを見つめて言った。
「ギルバート様は、ただ毎日、パンを買ってくださる常連のお客様です」
オスカーは、ギルバートを見据えた。
「クロウ伯爵が、何故わざわざ、従者も連れず、庶民街のパン屋に? しかも毎日?」
オスカーの言葉に、ギルバートは答えず、セシリアを見つめた。
オスカーはさらに言葉を荒らげた。
「城は反対方向ですよね? 何故、この店に? セシリアに会うためではないのですか?」
セシリアの心臓がどくんと鳴った。
確かに、城は反対方向だ。
ギルバートがわざわざ店に足を運んでくれているのは、もしかしたら。
(私――?)
顔が熱くなるのがわかった。
そんなセシリアの横で、ギルバートは息を吐いて、オスカーを見つめた。
「……私は、彼女に、まだ、何も申し込んでいない」
セシリアは目を見開いてギルバートを見つめた。
(――“まだ”――?)
先ほどはなかったその一言に気づき、意味するところを先走って想像すると、頬が一気に熱くなった。
(これから、私に、何を申し込むの、ギルバート様……)
「セシリア嬢」
ギルバートの声に、セシリアは顔を上げた。
「はい!」
思わず大きな声で返事をしてしまう。
「私は、あなたに会うために、このパン屋に通っておりました」
「……私に?」
「はい。最初は、元気にしているか、一目見られればそれでいいと思っていました。ですが……何度も会ううちに、もっとあなたと親しくなりたいと思うようになりました」
ギルバートは一度息をついた。
「いずれ、あなたに真剣な交際を申し込みたいと思っています。……もちろん、パンも好きですが」
「こ、交際……」
予想していたはずなのに、実際に言葉にされると、さらに顔が熱くなる。
「しかし」とギルバートは真剣な表情でセシリアを見つめた。
「あなたが彼のもとへ戻りたいのであれば、私は引き下がります」
セシリアは目を瞬いた。
「あなたが決めることです」
それだけ言って、ギルバートは一歩下がった。
伯爵である彼は、子爵家のオスカーより高い身分にある。
それなのに、自分の立場を使ってオスカーを退けようとはしなかった。
(ギルバート様は、違う――)
『妻には、やはり同じ貴族社会で育った女性を――』
先ほどまで頭にこびりついていたオスカーの言葉が、急に遠いものに思えた。
(ギルバート様は、まず、私の気持ちを聞いてくれる――)
「セシリア」
オスカーが再び手を差し出した。
「誤解して悪かった。君は僕のことが好きだよな。クロウ伯爵とは何もないのなら、何も問題はない。僕と帰ろう」
差し出された手を、セシリアはじっと見つめた。
以前の自分なら、きっと言いたい言葉も気持ちも飲み込んで、オスカーの手を取っていた。
けれど。
――これは、私が決めていいことなんだ。
ギルバートの言葉が、胸の中で何度も響いた。




