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第七十二話『電車の音』



 夕暮れの街。


     ◆


 茜色の空。


 伸びる影。


 夏の湿った風。


     ◆


 カナタと澪は、

 駅までの坂道を並んで歩いていた。


     ◆


 特別な会話はない。


 ただ、並んで歩くだけ。


 沈黙は不思議と苦じゃなかった。


     ◆


 コンビニの袋が揺れる。


 中には、

 二本のシュワシュワサイダー。


     ◆


「……暑い」


 澪が小さく呟く。


「夏だからな」


「それ言ったら終わりでしょ」


 少しだけ笑い合う。


     ◆


 その笑い声を聞くだけで。


 カナタは少し安心してしまう。


 まだここにいる。


 ちゃんと隣にいる。


     ◆


 駅前へ着く。


 人混み。


 電車のブレーキ音。


 雑踏。


 いつも通りの風景。


 それでも、


 どこか世界は不安定だった。


     ◆


 時折、

 通行人の輪郭が揺れる。


 駅の電子表示がノイズ混じりに点滅する。


 誰も気づいていない。


 気づけない。


     ◆


 でも。


 カナタだけは、

 その違和感を見逃せなかった。


     ◆


 ホームへ続く階段。


 澪が少しだけ足を止める。


     ◆


「……ねぇ」


「ん?」


 遠くで、

 電車接近音が鳴る。


     ◆


「このアナウンス、

 好き」


 その瞬間。


 カナタは少しだけ目を見開いた。


     ◆


 ホームへ響く女性の声。


『――まもなく、

 一番線に電車が参ります』


 柔らかい声。


 変わらない抑揚。


     ◆


 そう言われれば、

 何故かこの声を聞くと安心する。


 理由なんて、

 考えた事もなかった。


     ◆


「……なんか、

 変わらない感じするよね」


 澪が静かに言う。


 風が吹く。


 長い髪が揺れる。


     ◆


「世界がどれだけ変でも」


「この音だけは、

 ずっとここにあるみたいな」


 その言葉が、

 胸へ静かに残る。


     ◆


 カナタは澪を見る。


 夕暮れの光。


 灰青色の瞳。


 少し透ける指先。


     ◆


 失いたくない。


 その感情だけが、

 どうしようもなく強くなる。


     ◆


 電車がホームへ滑り込む。


 風圧。


 揺れる髪。


 白いノイズ。


     ◆


 一瞬だけ。


 澪の輪郭が、

 夕暮れへ溶けるみたいに薄く見えた。


     ◆


「……っ」


 カナタは反射的に、

 澪の手を掴む。


     ◆


 澪が少し驚いた顔をする。


 でも。


 すぐに小さく笑った。


     ◆


「……大丈夫だよ」


 優しい声。


「ちゃんといるよ」


 その言葉が、

 少しだけ苦しかった。


     ◆


 だって。


 “ちゃんといる”事が、

 もう当たり前じゃなくなっている。


     ◆


 電車のドアが開く。


 人が流れる。


 いつもの日常。


 繰り返されるはずの日々。


 それは少しずつ、

 終わりへ近づいていた。


     ◆


 ホームアナウンスが、

 もう一度静かに響く。


     ◆


 変わらない声。


 変わっていく世界。


     ◆


 その狭間で。


 カナタは、

 澪の手を離せなかった。


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