第六十九話『世界を壊した音』
ドームの歓声は、
異常だった。
◆
数万人。
揺れる光。
熱狂。
叫び。
名前を呼ぶ声。
その全てが、
巨大な渦みたいな混沌を生み出す。
…はずだった。
◆
ステージ袖。
白石遥は、
小さく息を飲む。
◆
「……おかしい」
観客の熱量が、
普通じゃない。
まるで。
感情そのものが、
一つに混ざり始めているみたいだった。
整っている。整いすぎている。
それは、同じ人間が数万人いるかのような。
◆
スタッフが慌ただしく走る。
『照明落ちてます!』
『モニター映像乱れてる!』
『音声系統ノイズ入ってます!』
誰もライブを止めようとはしない。
止められない。
◆
ステージ中央。
黒瀬ミカが、
静かにマイクを握る。
◆
白い照明。
長い黒髪。
異様な静けさ。
数万人いるはずなのに。
その瞬間だけ、
会場の空気が止まったみたいだった。
◆
そして。
智樹がギターを構える。
◆
遥の背筋を、
嫌な汗が伝った。
◆
『……智樹』
声をかけようとする。
でも。
智樹は振り返らなかった。
◆
ただ。
静かに前を見ていた。
◆
『始めるぞ』
落ち着いた声。
◆
そして、
UNDEFINEDの演奏が始まった。
◆
空気が揺れる。
低いノイズ。
耳鳴り。
照明明滅。
◆
誰も逃げない。
いや。
逃げられない。
◆
ミカが歌う。
その声を聞いた瞬間。
遥は理解してしまった。
◆
“境界”が消えている。
◆
観客。
ステージ。
記憶。
感情。
世界。
全部が曖昧に混ざり始めていた。
◆
『――っ!?』
客席の一部が揺らぐ。
輪郭がノイズ化する。
悲鳴。
泣き声。
歓声。
全部が混ざる。
◆
遥はステージを見た。
智樹が笑っていた。
◆
苦しそうに。
泣きそうに。
それでも。
救われたみたいに。
◆
ミカも笑っている。
その瞳は、
涙で滲んでいた。
◆
『ねぇ智樹』
歌の合間。
ミカが小さく呟く。
◆
『これで、
消えなくて済むのかな』
その言葉に。
遥の呼吸が止まった。
◆
違う。
これは救済なんかじゃない。
◆
二人は本気だった。
◆
忘れられたくなかった。
消えたくなかった。
存在していたかった。
整った世界では、感情は揺さぶられない。
音楽を、取り戻したかった。
◆
その感情だけで。
定義された世界をありのままに還そうとしていた。
◆
ノイズが増幅する。
観客席が歪む。
空間が軋む。
照明が落ちる。
◆
その瞬間。
遥は見た。
◆
客席の一部が、
“消えた”。
◆
『っ――!?』
誰かの悲鳴。
次の瞬間には。
周囲の観客が、
“最初からそこに誰もいなかった”
みたいな顔をしている。
◆
認識が、
書き換わっていく。
彼らはもう楽曲をコントロールできてはいなかった。
何が起こるのか、誰にもわからない。
◆
「だめ……!」
遥が叫ぶ。
でも。
声は届かない。
◆
UNDEFINEDは止まらない。
◆
ミカの歌声。
智樹のギター。
直人のドラム。
全部が混ざり合って。
世界の輪郭を壊していく。
◆
そして。
その瞬間。
◆
世界から、
音が消えた。
◆
完全な静寂。
数万人いるはずなのに。
誰の声も聞こえない。
◆
遥は目を見開く。
ステージを見る。
◆
ミカが、
こちらを見ていた。
◆
泣きながら。
笑っていた。
◆
次の瞬間。
白いノイズが、
世界を塗り潰した。




