第六十六話『覚えていて』
夜だった。
◆
窓の外。
夏の街。
遠くで電車が走る音。
静かな部屋。
◆
澪はベッドへ座りながら、
ぼんやり窓の外を見ていた。
薄いカーディガン。
白い脚。
夜風に揺れる髪。
その輪郭は、
以前よりさらに淡く見えた。
◆
カナタは床へ座り、
黙ってギターを抱えていた。
音は鳴らさない。
ただ。
そこにある温度だけを、
確かめるみたいに。
◆
「……今日ね」
澪が小さく呟く。
「コンビニ行った時、
店員さんに二回名前聞かれた」
カナタの指が止まる。
◆
「ポイントカード、
何回出しても反応しなくて」
静かな声。
「私、
本当に薄くなってるみたい」
その言葉が、
部屋の空気を静かに冷やした。
◆
「……朝霧」
「ねぇ」
澪が小さく笑う。
「もしさ」
少しだけ間が空く。
◆
「カナタまで、
私の事忘れちゃっても」
夏の夜風。
白いカーテン。
遠くの踏切。
◆
「それでも、
いいよ」
その瞬間。
カナタの呼吸が止まる。
◆
「……は?」
低い声。
澪は静かに続ける。
◆
「覚えてる方が、
苦しいかもしれないから」
「みんな忘れて」
「世界が元に戻って」
「カナタだけ覚えてたら、
きっと辛いよ」
震える声。
それは澪なりの優しさだった。
◆
「だから」
澪が少し目を伏せる。
「忘れても、
責めたりしないから」
沈黙。
蝉の声。
時計の音。
◆
次の瞬間。
「ふざけんな」
低い声が響く。
◆
澪が目を見開く。
カナタは顔を伏せたまま、
拳を握っていた。
◆
「なんでお前、
そんな事ばっか言うんだよ」
溢れそうな気持ちを必死に抑えながら、
カナタは言う。
「消えるとか」
「忘れていいとか」
「勝手に終わろうとすんなよ」
その言葉の一つ一つが、
抑えきれない感情みたいに零れていく。
◆
澪は何も言わず。
ただ静かにカナタを見ていた。
◆
「……俺は嫌だ」
カナタがゆっくり顔を上げる。
その目は、
少し赤かった。
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「絶対忘れたくない」
「苦しくても」
「怖くても」
「お前がいた事、
全部覚えてたい」
静かな部屋。
その声だけが、
真っ直ぐ響く。
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澪の呼吸が小さく揺れる。
灰青色の瞳が、
少しだけ潤んでいた。
◆
「……なんで」
小さな声。
「そんな事言えるの」
泣きそうな声で澪が言う。
◆
カナタは少し黙る。
それから。
ゆっくり言った。
◆
「澪といた時間は、
俺にとって特別なんだ」
その瞬間。
澪の瞳から、
一粒だけ涙が零れた。
◆
静かだった。
本当に静かに。
頬を伝って落ちる涙だけが、
やけにはっきり見えた。
◆
「……っ」
澪が小さく息を飲む。
泣くつもりじゃなかったみたいに。
◆
カナタはゆっくり立ち上がる。
ベッドへ近づく。
そして。
そっと澪の涙へ触れた。
◆
「……だからさ」
カナタも泣きそうな声で言う。
「絶対、
澪の事忘れたりしない」
その言葉を聞いた瞬間。
澪は泣きながら笑った。
◆
夜風が吹く。
白いカーテンが揺れる。
その静かな部屋は、
世界から取り残されているみたいだった。




