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第六十四話『ここにいる』



 澪を抱きしめたまま。


 カナタは、

 しばらく動けなかった。


     ◆


 細い肩。


 柔らかな髪。


 微かに感じる体温。


 全部。


 ちゃんとここにある。


 その事実だけで、

 胸の奥が痛くなる。


     ◆


「……カナタ」


 澪が小さく名前を呼ぶ。


 少し困ったみたいな声。


「苦しい」


「……あ」


 カナタが慌てて腕を緩める。


     ◆


 澪はベッドの上で、

 少しだけ笑った。


 その笑顔は、

 どこか弱々しかった。


     ◆


「……ごめん」


 カナタが目を伏せる。


「勝手に、

 消えたのかと思った」


 その瞬間。


 澪の表情が少しだけ揺れる。


     ◆


「……うん」


 小さな声。


「私も、

 ちょっと思った」


 静かな返答だった。


     ◆


 夕暮れの光が、

 白いカーテンを染める。


 部屋の中は静かだった。


 時計の音だけが、

 やけにはっきり聞こえる。


     ◆


「……最近、

 眠るのが怖いの」


 澪がぽつりと呟く。


 カナタは顔を上げる。


     ◆


「目を覚ました時、

 全部消えてそうで」


 掠れた声。


「カナタの事、

 忘れてたらどうしようとか」


「誰にも認識されなくなってたらどうしようとか」


 その言葉の一つ一つが、

 胸へ刺さる。


     ◆


「……そんな事、

 絶対…させねぇよ」


 カナタが低く言う。


 でも。


 その声は少し震えていた。


     ◆


「……うん」


 澪が小さく笑う。


「カナタ、

 最近ずっとそう言うよね」


「悪いかよ」


「ちょっとだけ」


 少しだけ笑い合う。


 その空気が、

 泣きそうなくらい愛しかった。


     ◆


 沈黙。


 夏の夕暮れ。


 蝉の声。


 カーテンを揺らす風。


     ◆


 カナタは、

 机の上のノートを見る。


『もし、

 私が消えても』


 その文字が、

 まだ頭から離れない。


     ◆


「……こんなの、

 書くなよ」


 優しい声。


 澪は少し黙る。


 それから。


     ◆


「……だって、

 怖かったから」


 静かな声。


「本当に、消える気がして」


「だから、

 残しておきたかった」


 その言葉に、


 カナタは、

 何も言えなくなる。


     ◆


 澪は消えたくない。


 なのに、


 消える事を、

 どこかで覚悟してしまっている。


 その事実が、

 どうしようもなく苦しかった。


     ◆


「……朝霧」


 カナタが小さく呼ぶ。


「ん」


 澪がこちらを見る。


 灰青色の瞳。


 夕暮れの光が揺れていた。


     ◆


「俺、

 お前がいない世界とか無理だ」


 その言葉に。


 澪の呼吸が、

 小さく止まる。


     ◆


「毎日、

 お前の事考えて」


「消えるかもしれないって怖くなって」


「なのに、

 何も出来なくて」


 掠れた声。


「……ずっと隣にいて欲しいのに」


     ◆


 沈黙。


 風が吹く。


 白いカーテンが揺れる。


     ◆


 澪はゆっくり目を伏せた。


 それから。


 本当に小さく笑う。


     ◆


「……それ、

 告白みたいだね」


 その瞬間。


 カナタの呼吸が止まる。


     ◆


「……っ」


 言葉が出ない。


 でも。


 否定も出来なかった。


     ◆


 澪は少しだけ困ったみたいに笑う。


 その瞳は、

 真っ直ぐ優しく、カナタを見つめる。


     ◆


「……嬉しい」


 小さな声。


「まだ、

 ちゃんとここにいられる気がした」


 その言葉を聞いた瞬間。


 カナタはもう一度、

 そっと澪を抱きしめた。


     ◆


 今だけでもいい。


 消えないでほしい。


 この温度を。


 この時間を。


 失いたくなかった。


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