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第五十六話『大丈夫。』



 最近、カナタは、

 よく立ち止まるようになった。


     ◆


 教室へ向かう途中。


 廊下。


 窓際。


 不意に。


「……あれ」


 足が止まる。


 何かを考えていたはずなのに、

 その内容が抜け落ちている。


     ◆


「先輩?」


 ひまりの声。


 カナタは小さく振り返る。


「……どうしたんですか」


「……いや」


 言いながら、

 自分でも分からない。


 何を忘れたのか。


 何を考えていたのか。


     ◆


 最近、

 こういう事が増えていた。


 言葉と記憶と感情。


 全部が少しずつ、

 白い霧の中へ沈んでいくような。


     ◆


 昼休み。


 屋上前。


 澪は静かに、

 カナタの顔を見ていた。


     ◆


「……また?」


 小さな声。


 カナタは苦笑する。


「顔に出てる?」


「めちゃくちゃ」


 本当に少しだけ、

 澪が笑う。


     ◆


「……大丈夫」


 カナタが言う。


 でも。


 その言葉が、

 自分でも妙に軽く聞こえた。


     ◆


 澪は何も言わない。


 ただ。


 じっとカナタを見ている。


 灰青色の瞳。


 その奥に、

 不安が見えた。


     ◆


「……朝霧?」


「その“大丈夫”」


 静かな声。


「最近、

 増えた」


 風が吹く。


 白い空。


 カナタは少し目を逸らした。


     ◆


「だって、

 実際大丈夫だし」


「嘘」


 カナタは言葉に詰まる。


 澪は静かに続けた。


     ◆


「忘れてる」


「疲れてる」


「無理してる」


「なのに、

 ずっと“大丈夫”って言う」


 澪は少し寂しそうに言う。


     ◆


「……別に」


「別にじゃない」


 澪が珍しく、

 強く言葉を返す。


 ほんの少しだけ張り詰めた空気。


     ◆


 カナタは黙る。


 言い返せない。


 本当は自分でも分かっていた。


 最近、

 自分の輪郭が少しずつ曖昧になっている。


     ◆


 夢。


 記憶。


 404NOTFOUND。


 智樹。


 黒瀬ミカ。


 全部が混ざり始めている。


     ◆


「……怖いんだよな」


 気づけば、

 口から零れていた。


 澪が顔を上げる。


     ◆


「思い出したいのに」


「思い出すほど、

 自分じゃなくなる気がする」


 淡々と口にする。


「でも、

 止まれない」


 風が吹く。


 遠くで蝉が鳴いている。


     ◆


 澪はしばらく黙っていた。


 それから。


 本当に小さな声で言った。


「……カナタは、

 カナタだよ」


     ◆


 静かな声。


 それはレイが最後に残した言葉と、

 どこか似ていた。


     ◆


「忘れていた記憶を思い出しても」


「たとえ世界がどうなっても」


「私は、

 今のカナタを見てる」


 灰青色の瞳。


 真っ直ぐだった。


     ◆


 その瞬間。


 胸の奥が、

 少しだけ痛くなる。


 救われるみたいに。


 苦しくなる。


     ◆


「……朝霧」


 カナタが小さく呼ぶ。


 澪は静かにこちらを見る。


     ◆


「もし俺が、

 全部思い出したら」


「俺、

 変わっちゃうのかな」


 澪は数秒黙る。


 それから。


「……変わるかもしれない」


     ◆


「でも」


 風が吹く。


 澪の髪が揺れる。


「それでも、

 私はカナタを見失わないよ」


 その言葉は、

 どうしようもなく優しかった。


     ◆


 カナタは何も言えない。


 ただ。


 その言葉を聞いていた。


     ◆


 その時。


 昼休み終了のチャイムが鳴る。


 澪が立ち上がる。


 一歩踏み出した瞬間。


 ふらついた。


     ◆


「っ……」


「朝霧!」


 カナタが慌てて腕を掴む。


 細い。


 驚くほど軽い。


     ◆


「……ごめん」


 澪が小さく笑う。


「ちょっと、

 立ちくらみ」


 その身体は、

 少し震えていた。


     ◆


 カナタは、

 掴んだ腕を離せなかった。


 失う気がした。


 本当に。


 少し目を離しただけで、

 消えてしまいそうで。


     ◆


「……大丈夫」


 澪が小さく言う。


 その言葉はもう。


 静かに…何かが壊れ始めていた。


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