第五十五話『炭酸の音』
ひまりは、
一人で音楽室にいた。
◆
夕方。
誰もいない校舎。
オレンジ色の光。
窓の外では、
グラウンドの声が遠く聞こえる。
◆
机の上。
開いたままのノート。
歌詞。
コード。
カナタに影響されて、作曲を始めてみた。
歌うのは元々好きだった。
自分の想いを楽曲にするのは、難しいけどすごく楽しい。
それなのに、今日は全然集中できなかった。
◆
「……はぁ」
小さく息を吐く。
頭の中へ浮かぶのは、
最近のカナタばかりだった。
朝霧澪を見る目。
声。
距離感。
全部。
少しずつ変わってきている。
◆
「……分かりやす」
ひまりが苦笑する。
言わなくても分かる。
先輩は、
朝霧先輩の事が大事なんだ。
◆
その時。
音楽室の扉が開く。
「……あ」
カナタだった。
◆
「なんだ、
いたのか」
「それはこっちの台詞です」
ひまりが少し笑う。
カナタはギターケースを肩から下ろした。
◆
「……最近、
ここ来るの増えましたね」
「まぁ」
短い返答。
でも。
以前よりちゃんとギターを触るようになっていた。
No Signal以降、
少しずつ。
◆
カナタは椅子へ座る。
軽くギターを構える。
空気を揺らすような、
静かなコード。
夕暮れの音楽室へ、
柔らかく広がっていく。
◆
「……その曲、
好きです」
ひまりが小さく言う。
「まだ途中」
「途中でもです」
カナタが少し笑う。
その横顔を見て。
ひまりの胸が、
少しだけ苦しくなった。
◆
好きなんだと思う。
ちゃんと。
もう。
◆
「……ねぇ先輩」
「ん?」
ひまりは少し迷う。
でも。
聞かずにいられなかった。
◆
「朝霧先輩の事、
好きですか」
空気が止まる。
ギターの音も止まる。
◆
「……はぁ?」
カナタが間抜けみたいな声を出す。
ひまりは少しだけ笑った。
「その反応、
ずるいです」
◆
夕陽。
静かな教室。
遠くの吹奏楽部の音。
全部が妙に、
夏っぽかった。
◆
「……そんなん分かんねぇよ」
カナタが小さく言う。
「でも」
そこで言葉が止まる。
ひまりは黙って待った。
◆
「消えてほしくない」
静かな声。
「朝霧がいなくなるとか、
考えたくない」
その言葉だけで、
十分だった。
◆
ひまりは少し俯く。
胸が痛い。
でも。
不思議と泣きたくはなかった。
◆
「……そっか」
小さく笑う。
「なんか、先輩らしいですね」
「何それ」
「鈍感って意味です」
「悪口じゃねぇか」
少しだけ、
二人で笑う。
◆
そのあと。
ひまりは鞄から、
シュワシュワサイダーを取り出した。
「はい」
「またそれか」
「だって好きじゃないですか」
プシュッ。
静かな炭酸の音。
◆
「……私」
ひまりが缶を見つめたまま言う。
「最近、
思い出せない事いっぱいあるんです」
カナタは黙って聞いていた。
◆
「でも」
「先輩といる時間だけは、
絶対ちゃんと覚えてたいなって思います」
夕陽が、
ひまりの横顔を赤く染める。
その笑顔だけ、
少し寂しかった。
◆
カナタは何も言えない。
ただ。
炭酸の泡が消えていく音だけが、
静かな音楽室へ残っていた。




