第五十一話『失われた夏』
澪が倒れた翌日。
カナタは朝から、
妙に落ち着かなかった。
◆
教室。
窓際。
澪の席が空いている。
その事実だけで、
胸の奥がざわつく。
◆
「……先輩」
ひまりが後ろから声をかける。
「今日、
朝霧先輩休みです」
「……知ってる」
短い返答。
ひまりに悪意はないのに、
自分でも驚くくらい、
声が硬かった。
◆
ひまりは少しだけ、
困ったみたいに笑う。
「そんな顔しないでください」
「今にも世界終わりそうです」
「終わりかけてるだろ」
思わずぶっきらぼう返す。
ひまりは一瞬だけ黙った。
◆
「……じゃあ」
小さな声。
「終わる前に、
遊び行きません?」
◆
放課後。
結局カナタは、
ひまりに連れ出されていた。
◆
海沿いの街。
モノレール。
夏の風。
白い雲。
強い日差し。
いつ以来だろう。
こんな普通の景色を、
ちゃんと見たのは。
◆
「先輩、
暗すぎですよー」
ひまりがアイスを食べながら言う。
「もっと青春してください」
「なんだよ青春って」
「海来たら走るとかです」
「だる」
「うわ最悪」
ひまりが笑う。
その笑い声だけ、
少し救われる気がした。
◆
海風が吹く。
ひまりの髪が揺れる。
眩しそうに目を細めながら、
こちらを見る横顔。
一瞬だけ。
カナタは言葉を失った。
◆
「……先輩?」
「いや」
慌てて目を逸らす。
ひまりは不思議そうに首を傾げたあと、
少しだけ嬉しそうに笑った。
◆
遠くで子供の声。
波の音。
世界は普通に夏だった。
◆
「……なんか」
ひまりが空を見る。
「最近、
みんな苦しそうですよね」
カナタは何も言わない。
「朝霧先輩も」
「先輩も」
小さな声。
「だから、
今日は普通の日にしたかったんです」
◆
その言葉に、
カナタは少しだけ目を伏せる。
普通の日。
今の自分達には、
それが一番難しい。
◆
「……ありがとな」
カナタが小さく言う。
ひまりは少し目を見開く。
それから。
「……えへへ」
少し照れたみたいに笑った。
その笑顔が妙に近く感じて、
カナタは少しだけ困る。
◆
夕方の駅前。
別れ際。
ひまりが不意に立ち止まる。
「……先輩」
「ん?」
ひまりは少し迷ったような顔をして、
すぐに小さく笑った。
◆
「ちゃんと、
頼ってくださいね」
風が吹く。
夕陽。
揺れる髪。
「先輩、
一人で抱え込みすぎです」
◆
「……そう見える?」
「めちゃくちゃ見えます」
即答だった。
カナタは少しだけ笑う。
◆
その時。
スマホが震えた。
【朝霧 澪】
画面を見た瞬間。
胸の奥が、
少しだけ強く鳴った。
◆
「……行ってください」
ひまりが小さく笑う。
「朝霧先輩、
待ってますから」
嘘の無い笑顔は
少し寂しそうだった。
◆
夜。
澪の部屋。
窓が開いている。
夜風。
白いカーテン。
そして。
ベッドへ座る澪。
少し顔色が悪いような気がする。
それでも昨日よりは落ち着いていた。
◆
「……大丈夫か」
カナタが聞く。
澪は小さく頷く。
「……多分」
「多分ってなんだよ」
澪が少しだけ笑う。
本当に、
少しだけ。
◆
沈黙。
夜風。
炭酸の泡の音。
二人でシュワシュワサイダーを飲む。
その静かな時間は、
妙に心地良かった。
◆
缶を持つ澪の指先へ、
ふと視線が止まる。
白く細い指。
少しだけ触れたら、
消えてしまいそうなくらい儚い。
そんな事を思ってしまって、
カナタは小さく息を吐いた。
◆
「……今日」
澪が小さく言う。
「ひまりと出かけてたんでしょ」
「……なんで知ってる」
「ひまりから写真来た」
スマホ画面。
海。
不機嫌そうなカナタ。
笑ってるひまり。
澪が少しだけ笑う。
◆
「……ちゃんと、
夏してる」
その言葉に。
カナタは少しだけ、
胸が締め付けられた。
◆
「……なあ朝霧」
「なに」
カナタは少し迷う。
でも。
今言わないと、
本当に後悔する気がした。
◆
「お前が消えるとか、
嫌だ」
静かな部屋。
風の音。
その言葉だけ、
異様にはっきり響いた。
◆
澪が目を見開く。
灰青色の瞳が揺れる。
感情は読み取れない。
すぐに困ったみたいに笑った。
「……急だね」
「うるさい」
カナタが目を逸らす。
◆
「あのね」
澪が小さく呟く。
「……嬉しい」
その声は、
泣きそうなくらい優しかった。
◆
風が吹く。
白いカーテンが揺れる。
その瞬間。
澪の肩が、
ほんの少しだけカナタへ触れた。
ただそれだけなのに。
胸の奥が、
どうしようもなく熱くなった。




