第五十話 『記憶酔い』
異変が起き始めたのは、
No Signal公開から三日後だった。
◆
最初は小さなものだった。
『知らない駅の夢を見た』
『行った事ない海を思い出す』
『知らない誰かの声が聞こえる』
SNS。
掲示板。
No Signal関連の投稿。
不思議な感覚。
どれも妙に現実感があった。
◆
昼休みの教室。
ひまりがスマホ画面を見ながら眉を寄せる。
「……これ、
ちょっと変じゃないですか」
カナタも画面を見る。
『知らない記憶なのに、
懐かしい』
『夢の中で誰かに名前呼ばれた』
『No Signal聴いてると、
昔の記憶が混ざる』
胸の奥が、
少しだけざわつく。
◆
「……始まってる」
澪が言う。
窓際。
その表情は、
少し青白い。
◆
「記憶酔い」
澪が小さく言う。
「感情同期が広がりすぎると、
他人の記憶境界が曖昧になる」
風が吹く。
白いカーテンが揺れる。
「No Signalは、
喪失感で繋がってるから」
「今、
世界中の“失った感情”が混ざり始めてる」
◆
「……そんな事、
ありえるのか」
カナタが呟くと、澪は少し黙る。
「404NOTFOUNDの時も、
似た事が起きた」
そう言うと、
教室の空気が、
少しだけ重くなった気がした。
◆
放課後。
屋上前。
最近、
三人の居場所になっている階段。
ひまりはジュースを飲みながら、
スマホを見ていた。
「……なんか怖いですね」
小さく呟く。
「みんな、
知らない誰か思い出してる」
風が吹く。
沈黙。
その時だった。
◆
「……っ」
澪の身体が、
ふらついた。
「朝霧!?」
カナタが慌てて支える。
細い身体。
熱は無さそうだ。
でも。
呼吸が浅い。
◆
「……大丈夫」
澪が小さく言う。
カナタの目には、
全然大丈夫そうに見えない。
灰青色の瞳が、
酷く揺れている。
◆
「また無理したんだろ」
「……してない」
「嘘つけ」
カナタが眉を寄せる。
その瞬間。
澪の視界が、
大きく揺れた。
◆
ブツッ。
白いノイズ。
次の瞬間。
澪の瞳から、
涙が零れ落ちる。
◆
「……っ」
カナタが息を呑む。
澪自身も、
驚いたみたいに目を見開いていた。
「……なんで」
掠れた声。
「今、
知らない人の記憶が流れて……」
その瞬間。
空気が凍る。
◆
「……記憶酔いが、
澪にまで来てるのか」
カナタが低く呟く。
澪は呼吸を整えながら、
小さく頷いた。
◆
「世界線が揺れすぎると、
境界が壊れる」
澪の声は震えていた。
「他人の感情とか、
記憶とか、
全部流れ込んでくる」
「それが進むと」
そこで言葉が止まる。
◆
「……どうなる」
カナタが聞く。
澪は数秒黙る。
それから。
「自分が、
分からなくなる」
消え入りそうな声で言った。
◆
風が吹く。
白い空。
階段の静寂。
その中で。
カナタは初めて、
本気で怖くなった。
澪が消える事より。
澪が、
“澪じゃなくなる”
そんなイメージに背筋が凍った。




