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第四十八話 『忘却』



 誰かの顔が、

 思い出せなくなっていた。


     ◆


 朝の通学路。


 ひまりが隣を歩いている。


「……先輩?」


 カナタは立ち止まったまま、

 スマホ画面を見ていた。


 古い写真。


 文化祭準備の時の集合写真だ。


 そこには確かに、

 一人分の空白がある。


 その顔が思い出せない。


     ◆


「……なぁ」


 カナタが小さく言う。


「俺、

 誰か忘れてる気がする」


 その瞬間。


 ひまりの表情が止まった。


     ◆


「……え」


 小さな声。


 風が吹く。


 朝の駅前。


 雑踏。


 そこだけ音が遠くなった気がした。


     ◆


「ギター弾いてて」


 カナタが続ける。


「いつも隣にいた誰か」


「いたよな?」


 ひまりは答えられない。


 ただ。


 胸を押さえるみたいに、

 制服を掴んでいた。


     ◆


「……分かんない」


 ひまりが掠れた声で言う。


「でも、

 苦しいです」


「何か、

 すごく大事だった気がする」


 その言葉だけで、

 十分すぎた。


     ◆


 ギター。


 笑い声。


 夜のセッション。


 それは覚えている。


 それなのに。


 肝心な輪郭だけが、

 白くぼやけている。


     ◆


「……最悪」


 ひまりが小さく笑う。


 その目は、

 少し赤かった。


「大切だったはずなのに」


「思い出せないって、

 一番嫌です」


     ◆


 学校へ着いてからも、

 空気は重かった。


 教室。


 窓際。


 カナタはずっと、

 ぼんやりしていた。


 その時。


「……永瀬」


 声。


 澪だった。


     ◆


 屋上前。


 最近、

 三人の場所になっていた階段。


 今日はひまりが来なかった。


     ◆


「……始まってる」


 澪が静かに言う。


 カナタは何も返せない。


「消失した存在は、

 時間が経つほど、

 世界から剥がれていく」


 静かな声。


「記録も。

 記憶も」


 風が吹く。


 白い空。


 そして。


 澪は少しだけ目を伏せた。


     ◆


「……柊悠真」


 その名前だけが、

 異様にはっきり響く。


「もう、

 かなり剥がれ始めてる」


 カナタの呼吸が止まる。


 その瞬間。


 頭の奥で、

 白いノイズが弾けた。


     ◆


 ギターケース。


 笑い声。


『カナター!』


 断片だけが蘇る。


 なのに、顔だけが見えない。


     ◆


「……嫌だな」


 カナタが小さく笑う。


 笑おうとしている。

 実際には、全然笑えていなかった。


「大事だったはずなのに」


「ちゃんと覚えてたいのに」


「もう顔すら思い出せない」


 その言葉が、

 澪の胸にも刺さったみたいだった。


     ◆


 数秒の沈黙。


 そのあと。


 澪が、

 本当に小さな声で言った。


「……私は」


 カナタが顔を上げる。


 澪は空を見たまま、

 続ける。


「忘れられたくない」


     ◆


 風が止まる。


 その言葉だけ、

 異様にはっきり聞こえた。


     ◆


「……朝霧」


「今、

 私が消えたら」


 澪の声は静かだった。


「ちゃんと、

 覚えててくれる?」


 カナタの呼吸が止まる。


     ◆


 答えなきゃいけない。


 そう思うのに。


 言葉が出ない。


 もし。


 レイみたいに。


 “誰か”みたいに。


 澪まで消えたら。


 自分は、

 本当に思い出し続けられるのか。


     ◆


「……ごめん」


 カナタが掠れた声を出す。


「分かんねぇ」


 その瞬間。


 澪の表情が、

 ほんの少しだけ泣きそうに見えた。


 一瞬。


 すぐに小さく笑う。


「……うん」


「知ってた」


     ◆


 放課後の昇降口。


 ひまりが一人、

 古い写真を見つめていた。


 ライブハウス。


 ギター。


 ぼやけた人影。


 その中心だけ、

 ノイズみたいに欠けている。


     ◆


「……誰なんだろ」


 ひまりが小さく呟く。


 思い出せない。


 顔も。


 声も。


 名前すら曖昧なのに。


 涙だけが、

 理由もなく零れ落ちた。


     ◆


「……変なの」


 ひまりは困ったみたいに笑う。


 笑いながら…


 胸の奥が、

 ずっと苦しかった。


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