第三十二話『炭酸の泡』
その夢を見始めたのは、
いつからだったのか。
ひまり自身、
もう分からなくなっていた。
◆
知らない部屋。
夕焼け。
床へ置かれたギターケース。
炭酸の缶。
誰かの笑い声。
『ひまりー』
優しい声。
でも。
顔だけが見えない。
そこでいつも、
夢は終わる。
◆
朝。
柊ひまりは、
少し重い頭のまま目を覚ました。
「……また」
最近ずっとそうだ。
何かを忘れている。
でも。
何を失くしたのかだけ、
どうしても思い出せない。
◆
リビング。
「おはよう」
母親の声。
「……おはよ」
静かな朝。
ニュース。
トーストの匂い。
全部普通。
でも。
ひまりの視線は、
部屋の隅へ向いていた。
そこ。
本来なら、
何かが置いてあった気がする。
「……ねえ」
「ん?」
「ここって、
前なんかあったっけ」
母親は少し考える。
「何もないわよ?」
即答だった。
でも。
ひまりの胸だけが、
少し痛む。
◆
登校中。
駅前のコンビニ。
無意識に、
ひまりは飲み物コーナーへ向かう。
そして。
手が止まる。
【シュワシュワサイダー】
「……」
なぜか懐かしい。
よく飲んでいた気がする。
でも。
一人じゃない。
誰かと一緒に。
「……誰だっけ」
小さなノイズ。
頭痛。
でも、
思い出せない。
◆
昼休み。
屋上前。
カナタは階段へ座っていた。
最近の定位置。
そこへ、
ひまりが静かに近づく。
「……先輩」
「ん?」
ひまりは隣へ座る。
少しだけ間が空く。
「私、
変な夢見るんです」
カナタの動きが止まる。
「どんな」
「知らない部屋」
「ギター」
「炭酸の缶」
胸の奥が重く沈む。
でも。
ひまりはまだ、
気づいていない。
◆
「あと」
ひまりが小さく続ける。
「誰かに
“ひまり”って呼ばれてる」
風が吹く。
曇り空。
カナタは何も言えない。
「でも顔だけ、
思い出せないんです」
その声が、
少し震えていた。
「……苦しい?」
思わず聞いていた。
ひまりは少し笑う。
でも。
その笑顔はかなり弱かった。
「はい」
静かな返事。
「なんか、
心に穴空いてる感じします」
◆
その時。
プシュッ。
ひまりが炭酸を開ける。
【シュワシュワサイダー】
小さな音。
その瞬間。
ブツッ。
ひまりの視界へ、
一瞬だけ知らない景色が流れ込む。
夕焼け。
ゲームセンター。
笑い声。
『それ俺のだろ』
男性の声。
そして。
肩へ軽く置かれる手。
「……っ」
缶が落ちる。
炭酸が床へ広がる。
「ひまり!?」
カナタが立ち上がる。
ひまりは頭を押さえる。
「……お兄ちゃん」
小さな声。
空気が止まる。
「……え」
ひまり自身も、
何を言ったのか分かっていない顔だった。
「なんで……」
呼吸が浅い。
「今、
誰かいた」
涙が落ちる。
理由も分からないまま。
◆
その時。
階段の上。
澪が静かに立っていた。
白いカーディガン。
灰青色の瞳。
そして。
苦しそうな表情。
「……始まってる」
小さな声。
「感情の方が、
記憶を追い越し始めてる」
風が吹く。
炭酸の泡が、
静かに床を流れていった。




