第二十八話『白いノイズ』
澪の様子がおかしくなり始めたのは、
『Patch』公開から三日後だった。
◆
朝の教室。
窓際の席。
澪はそこにいる。
ちゃんといる。
なのに。
時々、
輪郭が薄く見える。
「……朝霧?」
声をかける。
澪は少し遅れて顔を上げた。
「……ん」
「大丈夫か」
「大丈夫」
即答するが明らかに顔色が悪い。
眠っていないみたいな目をしている。
「……最近、
音がうるさい」
澪は小さく呟いた。
「音?」
「みんなの感情」
その言葉が、
妙に静かで怖かった。
◆
昼休み。
屋上前。
澪は階段へ座り込み、
膝を抱えていた。
風が吹く。
曇り空。
白い光。
「……ここなら、
少し静かだから」
小さな声。
カナタは隣へ座る。
「そんな酷いのか」
澪は頷く。
「最近、
境界が薄い」
「境界?」
「自分と他人の感情」
カナタは言葉を失う。
「悲しい人いると、
自分も悲しくなるし」
「怒ってる人いると、
胸痛くなる」
澪は静かに目を伏せる。
「今、
街中ずっとノイズがしてる」
その言葉の意味が、
少しだけ分かってしまう。
『Patch』。
感情。
共鳴。
全部、
繋がっている。
◆
「……俺の曲のせいか」
思わず漏れた。
澪は少しだけ顔を上げる。
「全部じゃない」
「でも原因ではあるだろ」
静寂。
風の音。
遠くの運動部。
「……カナタの曲、
人の感情を開いちゃうから」
澪はゆっくり言う。
「閉じ込めてたもの、
全部出てくる」
その曖昧な説明が、
妙にしっくりきてしまった。
◆
放課後の音楽室。
今日は誰もいない。
夕焼けも弱い。
空が白い。
澪はピアノの前に座っていた。
ぽぉん。
柔らかい音を鳴らす。
ぽぉん。ぽぉん
途中で音が止まる。
「……朝霧?」
澪が鍵盤へ触れたまま、
動かない。
「おい」
近づく。
その瞬間。
ブツッ。
澪の輪郭が、
一瞬だけ白いノイズへ崩れた。
「っ……!」
カナタの呼吸が止まる。
でも。
次の瞬間には戻る。
普通の澪。
静かな顔。
「……え」
澪自身も、
少し驚いた顔をしていた。
「今の……」
カナタの声が掠れる。
澪はゆっくり自分の手を見る。
「……始まったかも」
「何が」
澪は静かに答えた。
「大規模改変の代償」
◆
空気が冷える。
「……代償?」
「感情共鳴が強くなりすぎると、
境界が崩れる」
澪は窓の外を見る。
白い空。
「記憶保持者から、
壊れていく」
心臓が重く沈む。
「……壊れるって」
澪は少しだけ笑った。
でも。
その笑顔は、
ひどく儚かった。
「たまに、
自分が誰か分からなくなる」
その言葉に、
カナタは何も返せなかった。
◆
その時。
ブツッ。
音楽室のスピーカーが、
突然ノイズを鳴らす。
白い砂嵐。
そして。
微かに女性の歌声。
『――』
聞き取れない。
でも。
悲しい。
胸が締め付けられる。
澪が小さく顔を上げる。
「……また来る」
「え?」
「次の残響」
その瞬間。
窓ガラスへ、
一瞬だけ別の景色が映る。
巨大なライブ会場。
青白いライト。
無数の観客。
ステージ中央。
長い黒髪の少女。
灰色のパーカー。
マイクを握る姿。
そして。
歌声。
『――』
ノイズで聞こえない。
でも。
カナタの胸だけが、
なぜか強く痛んだ。
ブツッ。
景色は消える。
静かな音楽室。
白い空。
澪だけが、
青ざめた顔で呟いた。
「……天音レイ」




