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第二十三話『君が知らない昨日』



 ――『お兄ちゃん?』


 その言葉は、

 音楽室に余韻のように残る感じがした。


 夕焼け。


 静かな空気。


 止まったPC画面。


 誰もすぐには動けなかった。


     ◆


「……え」


 ひまりが小さく呟く。


「今、

 なんで」


 自分でも理解できていない顔だった。


 頭を押さえる。


「……なんか、

 変な感じ」


 呼吸が浅い。


「苦しい……」


 カナタが立ち上がる。


「ひまり」


「大丈夫です」


 そう言いながら、

 全然大丈夫そうじゃない。


 澪が静かにひまりの背中をさする。


「……今日は帰った方がいい」


 ひまりは少し迷ってから、

 小さく頷いた。


「……はい」


 そのまま、

 静かに音楽室を出ていく。


 ドアが閉まる。


 残ったのは、

 夕焼けと沈黙だけだった。


     ◆


「……朝霧」


 カナタが低く言う。


「なんで、

 ひまりだけ覚えてる」


 澪はPC画面を見る。


【Yuma_demo】


 そこに残る名前。


「……記憶じゃなくて、

 感情が残ってる」


「それ、

 どう違うんだよ」


 澪は少しだけ目を伏せる。


「人って、

 全部を忘れても」


 静かな声。


「大事だった気持ちだけ、

 残ることがあるから」


 風が吹く。


 カーテンが揺れる。


 夕焼けの色が、

 少し薄くなっていく。


「……残酷だな」


 思わず漏れた。


 澪は何も言わなかった。


     ◆


 その夜。


 カナタは眠れなかった。


 ベッドの上。


 暗い天井。


 イヤホンから、

 何度も『Yuma_demo』を再生する。


 ノイズ。


 笑い声。


 ギター。


 全部、

 昨日までそこにあった時間。


 その時。


『……そのコード、

 好きだな』


 悠真の声。


 胸が締め付けられる。


 次の瞬間。


 音が少し歪んだ。


 ノイズ。


 白い砂嵐。


 そして。


 知らない女の声が混ざる。


『――まだ、

 残ってる』


「……っ」


 飛び起きる。


 停止。


 巻き戻し。


 再生。


 もう入っていない。


「……なんだよ」


 静かな部屋。


 誰かがすぐ近くにいる気がした。


     ◆


 一方その頃。


 夜の駅。


 ホーム。


 白い蛍光灯。


 澪は一人、

 ベンチに座っていた。


『まもなく、

 一番線に電車が参ります』


 いつものアナウンス。


 変わらない声。


 澪は静かに目を閉じる。


 すると。


 ノイズの奥で、

 別の音が聞こえる。


 歓声。


 ギター。


 マイクチェック。


 知らないはずの、

 懐かしい音。


「……また」


 小さく呟く。


 最近、

 夢と現実の境界が曖昧だった。


     ◆


 澪の脳裏へ、

 断片的な景色が流れ込む。


 ライブハウス。


 赤紫の照明。


 マイクを握る黒髪の少女。


 黒瀬ミカ。


 その隣。


 ギターを弾く青年。


 顔だけが、

 ノイズで見えない。


『智樹』


 その名前が響いた瞬間。


 澪は小さく眉を寄せた。


「……違う」


 誰かの記憶。


 自分の中にも確かにある。


 混ざっている。


     ◆


 ホームへ電車が入ってくる。


 風。


 轟音。


 その瞬間。


 窓ガラスへ、

 一瞬だけ別の世界が映った。


 巨大なドーム。


 白いライト。


 無数の歓声。


 そして。


 ステージ中央。


 黒瀬ミカが、

 静かに笑っていた。


『――また、

 見つけた』


 ブツッ。


 世界が戻る。


 電車の音。


 アナウンス。


 静かな夜。


 澪は小さく息を吐いた。


「……まだ、

 始まったばっかりなんだ」


 その声だけが、

 夜のホームへ静かに溶けていった。

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