90話 ブリヌイの誓い
王都の朝、広いリビング。
私はキッチンに立って、生地を薄く焼く。
焦げたバターの匂いが鼻腔をくすぐる。
それを何枚も皿に重ねていく。
作り置きのモルスの瓶とコップが二つ。
湯気を立てているのは簡単なスープ。
お茶を淹れていると、所長が起きてくる。
私はテーブルにお皿を並べていく。
ジャムにはちみつ、サワークリームとスモークサーモンを添える。
「今日もブリヌイか……ヴェーラ、おはよう」
「所長、おはようございます」
所長はテーブルの上にある新聞を手に取る。
私の作ったモルスを飲みながら、たわいもない話をする。
平和で穏やかで幸せな朝。
こんな時間がいつまでも続けばいいのに……
夢なら……覚めないで……
「所長……好きです」
「ヴェーラ! 起きんかい!」
「はっ! エフロシーニャ師! ここは?」
私はエフロシーニャの大声に飛び起きた。
目を開けると、心配そうに覗き込むエフロシーニャの顔が見えた。
壁際にドラグと所長の姿もあった。
「幸せそうな夢を見ていたな」
エフロシーニャはため息をついた。
そして後ろを振り返る。
「ドミトリ、責任を取れ」
寝言、まさか声に出してないよね?
思わず顔が赤くなる。
「……約束をしたからな」
所長は、私が目覚めたことにほっとしているようにつぶやいた。
「もう目覚めないかと思った」
「……責任って?」
私はまだ夢の続きを見ているようだった。
「全てが終わったら、戻ってくると言っただろう?」
「はい!」
でも、もう全てが終わったの……?
「いや、厳密にはまだだ。俺は王都に行かなければならない」
「あれから、どうなったのですか? ここは? スズダールの街は?」
隣の建物に密着している窓からは、オレンジ色の光が見えていた。
朝……? 夕方……?
ここはクズネツさんの宿だ。
それはわかった。
でも時間の感覚はなかった。
「五日じゃ。ずっと寝ておった。今は夕方じゃ」
「五日……」
あの強制契約で意識が飛んで、それからずっと……?
私は、はっと上半身を起こした。
一気に記憶が戻ってくる。
「街の人は? 魔族は? 魔獣は? ムラークチュマは? オルロフは?」
「いっぺんに聞くでない」
「ムラークチュマの死体は見つかっていない」
「!」
所長が近づいてきてベッドに腰を下ろした。
右の義足を少し引きずっていた。
不安に襲われる。
まだ、終わってない?
「ムラークチュマは生きているのですか?」
「わからんが、手応えはあった。生き残れるとは思えん」
「……そうですよね」
腹部を氷で貫かれ、全身が凍ったまま、あの高さから墜落したのだ。
生きているわけがない。
「軍が観測しているが、奴の魔導反応はない」
そして所長は安心させるように笑顔を見せた。
「ヴェーラ。強制契約は成功した。魔族は全て捕らえられ、魔獣は悪魔化禁止の契約をするために軍に収容された。元気になったら手伝ってもらいたい」
そう言って所長は私の頭を撫でた。
「……はい。……オルロフはどうなりました?」
「わしが駆けつけたときにはオゴンたちも来ておった。ドラグがオルロフを振り回して暴れておった。アイカも大活躍じゃったのう」
「バウッ!」
私は目を見開いてドラグを見た。
オルロフを振り回す? 聞き違いかと思ったがそうではなかった。
「ドラグ?」
ドラグが口を開いた。
「エフロシーニャ師が来てくれて助かった。オルロフを殺しかけた」
ドラグは魔導銃を構えたオゴン少将たちにオルロフを盾と武器にして渡り合っていたらしい。そこにエフロシーニャが到着し、断絶魔導を解除してオゴンたちを眠らせたという。
「オルロフは全身を骨折していたが、命には別状はない。軍が奴の侵蝕魔導を断絶した。侵蝕の魔導はもう使えん」
「……」
断絶魔導で魔導陣を断絶することは、処刑の次に厳しい処置だ。
魔導の流れが断絶され、死よりも苦しいと噂される。
「断絶魔導がかかっているあの場では、ヴェーラの解放も効かん。もしもう少し早かったら、皆、拘束できたのじゃが」
「街の被害だが……魔獣は防げなかった……」
所長が目を閉じて首を横に振った。
外に避難していた人々の中には、魔獣に食い殺された者もいたと続けた。
でも被害は最小限に抑えられたと所長は言った。
助けられない人もいた……
あの悲鳴のような魔導反応はまだ記憶に生々しく残っている。
「だが、もし魔獣の強制契約ができなかったら、街の住民は全員、魔獣に食い殺されていたか、魔獣の悪魔化によってこの街は灰になっていた。当然、俺たちも無事ではなかった」
「……」
所長が慰めるように私の頭をまた撫でた。
沈黙が落ちた。
仕方がないと思うけど、まだ受け止めきれなかった。
「……これから……どうするのですか?」
かろうじてそれだけを口に出した。
前を向かなければ。
「雪が降る前に村に帰る。その前に魔獣の悪魔化禁止を一気に仕上げるぞ」
「……?」
一気にって、何千頭もいるのに?
私の顔が曇ったのを見てエフロシーニャは言った。
「心配はいらん、わしとドミトリがついてる」
「……はい」
エフロシーニャは用意していた薬にお湯を注いだ。
「これを飲んでまた寝なさい。まだ魔導の流れは回復してないですから」
エフロシーニャは治療院用の聖母のような顔で優しく言った。
「はい」
私はその強烈な味の薬湯を飲み干すと、また体が怠くなっていった。
しばらくすると、また眠りに落ちていった。
またあの夢を見たいと思いながら。
夢を見ずにぐっすりと眠った翌朝は、体は回復していた。
空腹が辛い。
私たちは食堂に降りて、カーシャを頼んだ。
そのカーシャにエフロシーニャは砕いた丸薬を有無を言わせずに混ぜ込んでいく。
「……」
「ほれ、食え」
「……はい」
「今日、魔導が必要になるでな」
空腹の身には、匂いのきついカーシャはこたえた。
でも、エフロシーニャも同じように丸薬を砕いたものを自分にも混ぜて食べていた。
「これから軍の収容施設に行って、魔獣の悪魔化禁止の契約を施す。それが終われば村に帰るぞ。ドラグ?」
「わかった」
朝食を食べ終わるころに軍の魔導車が表通りに止まった。
所長が車から降りてくるのが窓から見えた。
「では、行くでな」
「はい」
「バウ!」
私たちはドラグとアイカを連れて所長と落ち合った。
「おはようございます」
「元気になったみたいだな」
「はい」
ドラグは背負っていた大きな背嚢を軽々とトランクに詰め込んだ。
魔導車に乗り込むとドラグは窮屈そうだった。
エフロシーニャはその膝の上にちょこんと乗った。
私もアイカを抱えて乗り込む。
道は混んでいた。
資材を積んだトラックが行き交う。
「魔族の闇魔導で壊された壁と城門の修復だ」
所長が助手席から声をかけた。
街は俄かに活気づいていた。
「ヴェーラと行った強制契約についてだが、軍が大規模魔導陣を駆使したという事になった。不本意ながら俺が立役者となった」
所長はため息をついた。
「ヴェーラの名前を出す訳にはいかないからな」
「もちろんじゃ。お主たちの平穏のためにものう……」
「勲章なんていらないが、それでカタがつくなら仕方ない」
あれから六日が経っている。
私が目覚めた頃には住民の侵蝕の影響は、かなり消えたとエフロシーニャは言った。
ムラークチュマの不完全な魔導陣とヴェーラのレシピ詠唱の効果だろうと所長は言った。
「エフロシーニャ師の秘伝のレシピを提供していただき感謝しています」
「おかげでこの街の薬草の在庫はなくなったわ」
「エフロシーニャ師の指導のもと軍が総出で薬を作って配ったのです」
運転をしている魔導士官が会話に口を挟んだ。
「協力費をたんまり貰ったから、それはいいわな」とエフロシーニャは私にウィンクをした。
宿の灰色魔導師であるクズネツも、侵蝕魔導にはかからなかったらしい。
クズネツは近くの住民に外に出ないように働きかけていたとエフロシーニャは言った。
マリーナは無事だったのだろうか?
昨日目覚めてからそれが心配だったけど、それはすぐに杞憂に終わった。
魔導車が軍の仮基地に入ろうとしたとき、記者が車の周りを取り囲んだ。
「ドミトリ中佐! 今日の軍の発表ですが!?」
「マリーナ!」
そこにペンとノートを持つマリーナがいた。
「ヴェーラ? 無事だったのね!」
「マリー!」
「緊急だ! 道を開けろ!」
「また、後でね!」
魔導士官が怒鳴りつけると記者たちは道を開けた。
魔導車は敷地内に入っていく。
仮設の官舎の横に魔導車は止まった。
車が止まると見覚えのある人影が見えた。
「あれって……」
数人の魔導士官とともにキリルが、車から降りた私にニヒルな笑顔を向けた。
「キリルさん! 久しぶりです」
「ヴェーラ師。相変わらず、えらい目に遭っていますね」
「キリルさんも……何故ここに?」
キリルたちと共に官舎の中に入っていく。
「私は魔獣にかけられた魔導の解析と、もう一つの研究の実践で呼ばれたのですよ」
「ご無事で良かったです……」
クーデターのときのオルロフの放送で、キリルは異端扱いされていたのを思い出していた。
「禁忌の研究と放送で言われていたのはキリルさんの事ですよね?」
「ああ、そうです。ですがオルロフごときに私は負けません」
キリルは侵蝕魔導を仕掛けられ、効かないとわかるや魔導陣を抉られたが、自力で回復したのだそうだ。
官舎のホールには多くの魔導師が集まっていた。
所長が私たちを連れて前に立った。
「これから大規模魔導で捕らえた魔獣の悪魔化禁止の集団強制契約を行う」
「えっ!?」
そんなこと、聞いてない!
「ここには上級契約魔導師が集まっています」
所長の横にいたキリルが前に出た。
「私は解析局のキリルです。これからみなさんに大規模魔導陣の詠唱の臨床実験で、悪魔化禁止の集団契約をかけてもらいます」
その言葉に魔導師たちがざわめいた。
その中にイリアの顔を見つけた。
向こうも気がついた私に目配せをしてくる。
その顔は晴れ晴れとしていた。
スヴェトラーナさんとはうまくいっているみたいで安心する。
「知っての通り、軍の英雄であるドミトリ中佐の霧魔導には、まだまだ秘めた可能性があります」
キリルは講義口調となって見回した。
「若き天才、ソコル少佐も霧魔導を重ねがけします」
ホールの後ろにソコル少佐が見えた。
私が気がつくと、ソコルは軽く手を上げて白い歯を見せた。
「ここにいるヴェーラ師とドミトリにより……」
私たちも席についた。
キリルは小難しいことを話していた。
「ヴェーラは、神の魔導陣は開かなくていい」
「え?」
エフロシーニャがぼそっとつぶやいた。
「それを使ったら実験にならんでな」
「はい」
「……よって霧魔導には、他の魔導を増幅させる効果があるのではないかと推測されます」
キリルの講義は思いのほか長かった。
「……で、魔導係数の近しい上級魔導師に集まってもらっています」
ドラグも参加するらしい。
魔導係数は合格だったとのことだった。
観測魔導はできないが常に魔獣と暮らしている獣化の民にとって、魔獣との契約魔導に似た魔導は日常的に使っていることがエフロシーニャの推薦の理由だった。
なんだか、私が眠っているあいだにいろいろと動いていたと知って、改めて驚いた。
概要は、所長とソコル少佐の霧魔導に契約魔導を付帯させる。
ここにいる上級契約魔導師三十名とエフロシーニャと私とドラグで魔導陣を展開し連唱する。
最後にキリルが確認をして終了という流れだ。
「魔獣の管理の費用もバカにならない」
この臨時基地の司令官代理が最後に言った。
四千頭余りの魔犬、魔狐、魔狼、魔熊がいるらしい。
「できれば今日中に終わらせて、魔獣を山に放ちたい。健闘を祈る」
「「おう!」」
私たちは官舎を出た。
空には厚い雲がかかり、今にも雪が降り出しそうだった。
「雪が積もる前に山に魔獣を返さないと、冬の準備もさせてあげられない」
「まったくだ。さらに言うと、繁殖して悪魔になんてならないようにしてもらいたいものだな」
私がそう呟くと、近づいてきたイリアが同意して付け加えた。
「ヴェーラは相変わらずだな」
「イリア! スヴェトラーナさんとは上手くやってますか?」
「毎日、大変だよ。新居の準備に結婚式に、事務所の設立に契約局の復興に、おまけにスズダールまでの呼び出しだ」
イリアは大仰に嘆いてみせたが、その目は笑っていた。
「ドミトリ師とは、うまくいったんだな?」
「はい!」
私が万感の思いを込めて頷いたとき、所長の号令がかかった。
悪魔化禁止の大規模魔導陣が始まった。
所長とソコルが霧魔導を展開した。
私はエフロシーニャと手を繋いで流した魔導を思い出し、ほんのちょっぴりの魔導を左手に流した。
三十余名の魔導師の魔導陣が一つに重なっていく。
魔導抵抗は強かったが、これだけの人数で行うと文言が一気に刻まれていく。
そして詠唱が一つになり、霧を震わせた。
魔導陣は霧の粒子で複製されるように一頭ずつ魔獣に展開していった。
私の魔導陣は神の魔導陣にもならず、詠唱もレシピにはならなかった。
立ち込める霧の中、魔導陣が発動すると魔獣の群れは静かにうずくまっていく。
悪魔化禁止の魔導陣が定着していれば、このあと軍が山奥まで魔獣を放ちに行くらしい。
キリルはそのまま部下たちと解析に入った。
その間、官舎で待機となった。
所長は悪魔化禁止の魔導陣の確認とその後の作戦のため、ここで別れることになった。
「ヴェーラ。俺はしばらく今回のことの後処理をしなければならない」
「……はい」
「王都に行って、春には村に迎えにいく」
「……!」
春って……まだ、ずいぶん先だ……
曇った私の顔を見て、所長が補足した。
「この足では、もう軍にはいられない。だが、レオニード少将閣下一人に後始末を押し付ける訳にはいかないだろう? 春までには終わらせる」
「はい」
「だから、待っていてほしい」
「約束ですよ」
「ああ。神の魔導陣にかけて誓う」
「では私は……ブリヌイにかけて誓います」
その言葉を聞いた所長は、唇の片方を上げた。
「なんだ、それは?」
「所長に、美味しいブリヌイを焼けるようになるのです」
その言葉に所長は目を見開いた。
そして、所長は私を抱きしめた。
「ヴェーラ。……よく頑張ったな」
「はい。所長……」
その言葉だけで十分だった。
目頭が熱くなる。
知らずに涙が頬を濡らした。
春まで私ももっとエフロシーニャに修行をつけてもらわないといけない。
一人前になって所長の横に立って、補佐できるように……
やがて所長は私から体を離すと官舎の奥に消えて行った。
待っています、所長……
所長の体が扉の奥に消えるまで見送った。
やがてキリルが合否の連絡のため、ホールに入ってきた。
「成功しました。合格です」
「「よおし!」」
ホールが揺れた。
待機していた魔導師たちが安堵の声と興奮した声を上げ、肩を叩き合った。
そのときには、すでに昼過ぎになっていた。
エフロシーニャがイリアとキリルに声をかけ、一緒に昼食を取ることになった。
「一応、確認じゃが……」
神の魔導陣については、誰にも話してはならん、研究するなどもってのほかだと、エフロシーニャはイリアとキリルに鋭い眼光を向けた。
イリアは当然だと頷いたが、キリルは少し残念そうな顔になった。
秘密を共有する仲間であり、ヴェーラを庇護する存在になってほしいとエフロシーニャに重ねて頼まれて、キリルは首肯せざるを得なかった。
当然だ。
エフロシーニャの頼みを断れる命知らずな人間など、この世界にはいない。
イリアは一仕事終えた顔で、ワインを次から次へと開けた。
ドラグにも勧めていたが、顔色も変えずに三瓶飲み干したところで、イリアは心配そうな顔になって財布を開いた。
キリルはまだ研究が残っていると酒には手をつけなかった。
久しぶりに笑い合い、楽しい時間を過ごした。
短い時間だったけど、また王都に戻ったら会おうと別れた。
「ドラグ! 村に帰るでな」
「バウッ!」
エフロシーニャはドラグにそう告げた。
私が寝ている間に荷物をいっぱい買い込んでいたようで、ドラグの背中には大きな背嚢があった。
もう村に帰るのか……
もうすぐ本格的な冬になる。
雪が降る前に冬支度を終わらせないといけない。
遊んでいる暇なんてないのだ。
私は頷いた。
マリーナには春になったら王都で会おうと手紙を書かないといけないと思いながら。
「では、帰るでな」
「はい」
「バウッ!」
私たちは雪の散らつく中、ドラグにしがみついてスズダールの臨時基地を飛び立った。
春までに美味しくブリヌイが焼けるだろうか、と少し不安になりながら。




