89話 ブリヌイの決着
霧の上には、もう魔族はいなかった。
代わりに街から魔導反応が膨れ上がるのを感じる。
その一つ一つが困惑と苦しみに満ち、悲鳴そのものだった。
エフロシーニャがまた魔導散弾銃に弾丸を装填した。
その顔は上気している。
「久々の干渉魔導はいいのう……」
「エフロシーニャ師、大規模魔導陣が発動してしまいました」
エフロシーニャとは逆に、私は絶望していた。
霧の下から悲鳴のような魔導反応がいくつも感じる。
その中にはマリーナもいるかもしれない。
「魔獣と魔族が集まっておるな」
エフロシーニャが魔導散弾銃を構え直した。
そして街の四方から、魔獣と魔族の反応が大きくなっている。
スズダールの街はどうなってしまうのだろう?
ムラークチュマの生死もわからない。
もしオルロフが逃げ出したら……
「まだ、終わっていないです」
「大丈夫じゃ」
でも私の心配をよそに、エフロシーニャは自信満々に頷いた。
「のう、ドミトリ?」
「ヴェーラ。霧に消音を付帯させたように強制解放契約もできるかもしれない」
「!」
「干渉魔導と契約魔導の合わせ技だ。……神の魔導陣があれば可能性はある」
「やります」
王宮で魔導陣を抉られた魔導師たちを思い出した。
あのときも神の魔導陣でいっぺんに解放した。
あれをやればいい。
でも、街全体……
私の体は、もつ?
でも、やらないとマリーナは助けられない。
「ヴェーラ。連唱だ」
「! はい!」
「ヴェーラ。霧が広げてくれるのじゃ。先ほどの魔導制御を思い出せ」
「はい」
私は慎重に神の魔導陣を開いた。
暴走するとまた意識がなくなる。
エフロシーニャに流したように少しずつ。
そこに所長も神の魔導陣を広げた。
所長の神の魔導陣は半ば透き通っていた。
もう、神の魔導陣が切れてしまう?
それを守るように私の神の魔導陣は力強く重なった。
「ヴェーラ。俺のあとに続いて刻め」
「はい」
《霧に契約魔導を施す。一つ、侵蝕に犯された人々の魂をドミトリとヴェーラの名において解放せよ》
文言を所長の後から刻んでいく。
霧の下で侵蝕の魔導反応が強くなっていく。
まるで助けを求める叫びのようだった。
所長が詠唱を始め、私は少し遅れて続いた。
「霧に契約魔導を施す。一つ、侵蝕に犯された人々の魂をドミトリとヴェーラの名において解放せよ」
「粉と卵とミルクを混ぜ合わせ、溶かしバターを合わせ、薄く焼き上げ、ジャムとハチミツで召し上がれ!」
霧の中にふんわりとした香ばしい匂いが立ち込めていく。
ジャムと蜂蜜の甘い匂いが食欲をそそる。
それは街中を優しい匂いで包み込んでいき、霧の上にまで漂ってきた。
「解除と解放が一緒か……」
所長が感心したようにつぶやいた。
「なんのレシピでしょうか?」
「粉もんじゃな。ブリヌイじゃろ」
「……ブリヌイ」
パンケーキはいつも焦がしてしまう。
でも、薄焼きのブリヌイだったら……
所長に作ってあげたい。
いやいやいや……何を考えてるの、私は。
「ふむ。侵蝕の魔導反応が消えたな。成功じゃ。じゃが……」
エフロシーニャが笑いながら言った。
そう、でもまだ終わっていない。
「わしはドラグの元に戻るでな。あそこは断絶されておる。オルロフの侵蝕魔導は解除されておらん」
そう言ってエフロシーニャは魔導散弾銃を不敵に構えて見せた。
「はい」
「ヴェーラ。俺たちは魔獣と残りの魔族の対処だ」
「はい!」
私は思わず目を見開き、そう答えた後で不安になった。
「……一緒に行って、いいんですか?」
「すでにエフロシーニャ師は下に降りた。足手まといになると思ったら置いてはいかない」
「はいっ!」
所長とエフロシーニャ師に認めてもらえた?
こんなときなのに、嬉しさが込み上げる。
『こちらドミトリ中佐……レオニード閣下の命で隠密活動中だ。誰かいないか?』
所長は音声魔導通信を開いた。
『……ドミトリ中佐!? こちらヴォールク大隊所属ヴェブリ少佐であります! 街が大変なことに!』
雑音混じりの音声の背後では、怒号が飛び交っている。
『ヴェブリ少佐……軍の侵蝕魔導の被害状況は?』
『佐官クラスの被害はありません。その後、不思議な匂いとともに侵蝕がかかった魔導師は回復しております。ですが、魔導師以外の軍属はまだ動けません』
所長はため息をついた。
歩兵、機甲師団はまだ動けないか、と呟いた。
『魔族の首魁、ムラークチュマは倒した。直ちにヴォールク中佐に繋げ』
『はっ!』
『ムラークチュマを倒した? さすがは中佐』
まもなくヴォールク中佐に音声魔導通信が切り替わった。
所長とヴォールクは迎撃の連携についてやり取りをしていた。
その間、私は観測をすることにした。
魔族の反応は東と北からで、魔獣の群れも東と北の街の壁を取り囲んでいた。
「!」
北門の方角で大きな魔導反応が起こったのがわかった。
「所長! 北の門から魔獣の群れが入ってきます!」
『ヴォールク中佐! 聞いたか? 俺は北の門に向かう。東の門と鉄道を守れ!』
『了解した。北の門を頼む』
所長は霧の上を北に向かって飛んだ。
所長の大きな手が私のお腹をしっかりと掴んでいる。
凍てつく寒さの中でも、その温もりだけははっきりと伝わってくる。
「西は川だ。南には基地がある。北と東から攻めてくるのは想定通りだ」
「……はい」
私たちは霧の中を北の門に向かう。
そこはエフロシーニャと泊まった宿がある職人街に近い。
「全ての計画が潰れたときには、魔獣でこの街を蹂躙するつもりだったのだろう」
「……」
魔獣に致命傷を与えたら悪魔化する。
数千頭の魔獣が街を囲み、数百頭の魔獣がすでに北の門から街に入ってきていた。
所長は魔導陣を開くと、詠唱した。
「霧の範囲を広げた」
「また霧に強制拘束を付与するのですね?」
「その前に魔族が来るな」
そう所長が言った途端、魔族の反応が近くに現れた。
霧の中、魔獣の群れが市街地のほうに向かって大通りに入ってきているのがわかる。
悪魔出現の非常警報で深夜に飛び起きた住民たちは、深い霧の中で混乱状態にあるようだった。
深夜とはいえ外に飛び出した人々は少なくはない。
魔獣の咆哮と悲鳴が次々と響いた。
「早くしないと! 魔族と戦っている時間はありません!」
「魔族もろとも強制拘束できるか?」
「やります!」
すでに東門も破られているのがわかる。
軍も出動したようで魔導反応が複数向かっている。
魔導反応が直近で起こり、目の前で闇が広がった。
それを所長は避けていく。
私は目を閉じて魔導の流れを確認し、安心した。
まだいける。
あのときと同じ。
あの悪魔化した魔狼を所長と強制拘束したときのように、連唱すればなんとかなる。
でもきっとぎりぎり。
所長は飛びながら、魔導陣を開いた。
私もそれに神の魔導陣を被せる。
文言を刻んでいく。
体の中の魔導が根こそぎ搾り取られるように魔導陣に吸い込まれていく。
意識が何度も飛びかける。
でも所長の力強い右腕を通して、所長の魔導を感じる。
所長が、側にいてくれる。
数千頭の魔獣と魔族への強制契約。
ついさっき解放した、侵蝕魔導をかけられた一般人とはまるで違う。
今までのどんな強制契約よりも魔導陣は文言を刻むのを拒否しているかのようだった。
強い魔導抵抗を感じる。
「くっ!」
私が挫けそうになったとき、所長の魔導が再び流れてきた。
所長は魔族の闇魔導を避けながら文言を刻んでいるが、その指先も遅々として進まない。
一つでも闇魔導を受ければ、そこで終わってしまう。
だったら、私が先に刻んで!
魔導の流れをさらに研ぎ澄ます。
膨大な魔導が魔導陣に流れていく。
神の魔導陣にこの魔導の流れを乗せられれば!
抵抗をねじ伏せるように刻んでいく。
私が刻んだあとを、所長がなぞるようについてくる。
《霧に契約魔導を施す。一つ、魔族および魔獣の身柄の拘束をドミトリとヴェーラの名において強制契約す》
刻めた。
詠唱……
数体の魔族が追ってきている。
再び霧の上に出たとき、詠唱が終わった。
目の前が闇に包まれる。
闇魔導に飲まれた……?
神の魔導陣が光り輝き、さらに魔導の流れが怒涛のように体の中から出ていった。
私は意識を保つことができなかった。
香ばしい薄焼きパンケーキが焼ける匂いが立ち込めていくのを感じたのが、意識の最後だった。




