9話 魔狼
昨日は、所長とこじんまりとした食堂で早めの夕食をごちそうになった。
所長と二人で食事をしたことは初めてだった。
久々にぐっすり眠れたけれど、朝起きたとき頭が少し痛かった。
メドヴーハ(蜂蜜酒)、飲みすぎた。
こめかみを押さえながら出勤すると、ドミトリはすでに外出の支度をしていた。
「おはよう、ヴェーラ」
「……おはようございます」
「急ぎの案件だ」
ドミトリはレターを手渡した。
昨日の日付で速達で届いていた。
「魔狼がいるんですか? 王都の郊外に?」
「そうだ。これから列車で行く。もちろんヴェーラもだ」
「私も、ですか?」
復帰早々いきなりハードな案件だった。
「なんだ? 疲れているのか?」
「いえ、……大丈夫です」
元軍の精鋭。
三日拘束された程度では、休ませてはくれない。
昨晩、所長から軍での訓練について聞かされていた。
私の魔導係数が上がっていることを話したときだった。
「11.1を切ったか、干渉魔導師になれるな。軍に入りたいのか?」
「一応、目標でしたので……」
ドミトリは苦笑した。
そして、こう話してくれた。
「干渉魔導師で軍に入るとだな。最初の半年目で三百回の魔導陣を展開する」
「一日で、ですか……」
「まずは、そのための体力作りだ」
私は首を振った。
百八回なんてものでは、なかった。
「限界まで、行う」
ドミトリはメドヴーハ(蜂蜜酒)を流し込んで言った。
「実践では、その十分の一が基本になる」
「所長の限界は……?」
「俺は千五百だ」
「千五百……」
私はめまいがした。
「軍隊は体力がなければ、どうにもならん」
軍の英雄レオニードは、さらさらの金髪の秀麗な顔の下で筋肉ムキムキのマッチョで有名だ。
「魔導師のローブの下は男も女もガチムチだ」
「……」
「まずは、体力をつけろ」
「……」
私はメドヴーハをあおった。
確かに風に乗って空を飛び、魔導陣を展開し詠唱するのは常人では無理だ。
——お前には無理だ、と言われた気がした。
飲みすぎてしまったとしても仕方がない。
「所長……魔導陣を展開するのは魔犬ですよね?」
王都の中央駅で列車を待つ間、所長に尋ねた。
「そうだ。魔犬に展開する。魔犬の数が多い」
「そんなに必要なんですか?」
「ああ、魔狼が悪魔化しかかっているようだ」
「……悪魔化」
それは悪夢だった。
マリーナの言葉が頭をよぎる。
「じゃあ、誰か人が、魔狼を殺そうとした?」
人の手で重傷を負わせると、魔獣は悪魔化する。
殺すなら瞬殺が鉄則だった。
悪魔化したら、精鋭の魔導連隊でないと太刀打ちできない。
魔獣は魔獣でないと駆除が出来ないのはそういう理由からだ。
「魔導銃で、傷をつけたそうだ」
所長はため息をついた。
そのとき、魔導列車が滑り込んできた。
魔導列車は王都の市街地を抜けていく。
三十分も走ると草原と森が広がり始める。
私の故郷は王都から列車で八時間、乗合馬車を乗り継いで三時間はかかる。
二日がかりで行く北方の小さな村だった。
最後に帰ったのは三年前の卒業のときだった。
その故郷は私が生まれる前に、悪魔化した魔狼に大被害を受けたと聞いていた。
——お父様、お母様、会いたい……
悪いことをしたら、悪魔化した魔狼に襲われるぞ、と散々脅されたものだった。
まだ悪魔化した魔獣には出会ったことがなかった。
ノスタルジーに浸っていると所長に声をかけられた。
「これから、行くのは……」
「……はい」
その声に現実に帰る。
「二時間行ったところの、貴族の荘園に面した森だ」
「じゃ、お貴族様が……」
「内々で処分したがってる。で、うちに来た」
「でも、私、魔導履歴を提出しないといけないのですが……」
「十匹でいい。その上から俺が、魔獣駆除攻撃契約を重ねがけする」
「分かりました」
責任重大だった。
もし悪魔化したら被害は計り知れない。
その貴族の責任も問われる。
「駅についたら、迎えが来る」
私が不安な顔していたのだろう。
所長が言った。
「なに、後輩の魔導連隊長にも話はつけてる」
「でも、もし悪魔化したら……」
「まあ、お家は潰れるだろうな」
その前に私たちも喰われてお終い……
干渉魔導を封じられた所長には、何もできない。
どうか悪魔化していないで。
私は魔導神に祈った。
緊張したまま私たちは駅に着き、迎えの魔導車に乗った。
「ドミトリ中佐どの……よろしくお願いします」
「もう、軍は辞めたのだが」
「それでも、坊ちゃんをどうかどうか」
初老の運転手は今にも泣き出しそうだった。
「魔犬は何匹ですか?」
「三十匹でございます。魔導師様」
「三十か、悪魔化していない魔狼なら足りる」
三十分ほど走ると頑丈な鉄門があり、さらに二十分ほど林を抜けると邸宅が見えた。
その裏手に魔犬が集められていた。
鎖に繋がれた魔犬は獰猛な牙を剥き出して、吠え立てていた。
私はその魔犬の大きさと吠え声に思わず後ずさった。
「これは、ドミトリ師。ご足労をおかけする」
泰然とした立派な体格の荘園主は、男爵の家紋をつけていた。
その隣にいかにも出来の悪そうな長身の青年がそっぽを向いていた。
「お前も礼をせぬか!」「俺のせいじゃない……」
青年の顔は青ざめていた。
「礼はいらない。早く魔犬と契約したい」
所長は厳しい声で言った。
「これだけの魔犬、集めるのに大変だったろう」
「手と金を尽くしましたゆえ」
「ヴェーラ。十匹、服従契約だ。その上から魔狼駆除を俺がかけていく」
「分かりました」
私は左手に魔導を通した。
一匹目の魔犬に魔導陣を展開する。
《一つ、悪魔化しない》
その上に魔導陣を展開する。
《一つ、ヴェーラの名において、人間の言うことは絶対服従、群れのボスに従え》
魔導陣に文言を刻んでいく。
そして、詠唱。
「一つ、肉を練り形を整え、黄金の皮を纏わせよ!」
魔導陣に文言が定着していくと同時に、肉の焼ける良い匂いが漂った。
——なんのレシピに変換されているのかは分からないけど、多分、コトレータ(ひき肉のひら焼き)。
五匹目、六匹目と魔導陣を展開していったとき、全然疲れていないのに気がついた。
余裕すらあった。
——キリルさんの百八の魔導陣展開が、良い訓練になった……?
「所長。今ならあと十匹行けそうです」
「あと五匹にしておこう。報告が面倒だ」
所長は微笑みを浮かべた。
「はい! やります!」
私が十五匹の魔導陣の展開を終えたとき、所長も従順と魔狼駆除契約を終えた。
そして所長は疲れた様子も見せずに私に言った。
「ヴェーラ。腕が上がってるな」
その言葉がたまらなく嬉しかった。
胸が熱くなる。
その瞬間。
三十匹の魔犬が一斉に唸り出した。
森に向かって毛を逆立て、吠え始める。
森の奥にそれはいた。
影が、動いた。
空気が冷えていく。
木々が揺れた。
その奥で影が揺らぐ。
——まさか……
悪魔化……?
逃げないと……
でも、ここで逃げたら……
巨大な影が、森から姿を現した。




