8話 解放
「所長……もう食べられません……」
迫り来るシルニキに、足元がハチミツに沈んでいく。
所長は展開した魔導陣から次々とシルニキを繰り出していく。
「ヴェーラ……シルニキだぞ」
所長はニヒルに片頬を上げる。
その顔はやがて冷笑を浮かべるキリルになった。
「あと百八の魔導陣を解除してもらう……」
「ええッ!! さらに百八ッ!?」
ジリリリリ!! と目覚ましが鳴っていた。
口の周りに昨晩食べかけのシルニキの残骸がこびりついていた。
ハチミツでべたべたしている。
赤烏が悲鳴のように鳴いていた。
「……もう、朝」
私は疲れた体を起こした。
指先の痺れがいつもより強い。
早くしないと、お迎えが来る。
シャワーを浴び、身支度を整えたところで部屋がノックされた。
「……今、いきます」
私はため息をつき、魔導車に乗り込む。
一日に六十二個もの魔導陣を展開したのは初めてだった。
もう、体は限界だった。
でも、あと二十個で終わる。
本当に……終わるの……?
夢の中のキリルに悪寒が走った。
「おはよう! ヴェーラ師、実に良い朝だ」
昨日と同じ部屋に通されると、キリルは満面の笑みを浮かべた。
「例の魔導陣は、解明できたんですか……?」
「午前中は、残りの二十個の契約解除を引き続きしてもらう」
キリルは私の質問を無視した。
「午後……は?」
そのとき、記録術師が部屋に入ってきた。
「やはり、レシピと契約内容、文言に何の関連性も見られませんぞ」
「肉料理、魚も、スープもおやつも……詠唱の文言と対応しては、いないか……」
「残り二十の魔導陣にヒントがある可能性はありますぞ」
「……そこに賭けるしかないか」
「あの……あの! 私は、午後は何をすれば……?」
二人は私を見た。
記録術師が舌打ちをした。
「驚くべきは例の魔導陣の展開は、魔導を流すと同時に形成されていたのです」
「詠唱は、いらない……?」
「食欲をくすぐる良い匂いですが……」
「……まだ例の魔導陣は分からないんですね?」
置いてけぼりにされて、私は苛立ちを覚えた。
キリルはため息をついた。
「ヴェーラ師……解明は、まだ先だ」
キリルが苦虫を噛み潰したような顔をして言った。
まさか解明されるまで、解放されない……?
頭から血の気が引いていく。
「では、ヴェーラ師始めましょうか」
「今日の記録は、高速度魔像機を借りてきましたぞ」
「チュ! チュゥッ!!」
箱の中で魔鼠が暴れる。
記録術師が魔像機に魔導陣を展開する。
私は魔鼠に魔導陣を展開した。
素早く動き回る魔鼠に狙いが定まらない。
《一つ、跳躍は五十ミリメールト以下。この契約をヴェーラの名において解除する》
これ解除して大丈夫?
私はキリルの顔を見た。
キリルは魔像機の映像から目を離さない。
知りませんよ、どうなっても。
私は左手に魔導を通し文言を刻むと、詠唱する。
「一つ、肉に串を刺し、炎で炙り、香りを立たせよ、おいしく召し上がれ!」
「シャシリク(串焼肉)……」
「シャシリクは初めてですぞ」
「晩飯はシャシリクにするか」
魔導陣が光に包まれて霧散し、焦げた肉の匂いが漂った。
「キィーッ!!」
箱から飛び出した魔鼠を、キリルは電光石火の動きで捕まえると箱に戻した。
「次……」
「……分かりました」
私は次の魔導陣を開く。
「一つ……」
「ちょっと! 待てっ!!」
「見てください。今、例の魔導陣が開きかけましたぞ」
「このタイミングだな。掴めてきたぞ」
「チュチュ……チィーッ!!」
箱の縁に顔を出した魔鼠を、キリルは見向きもせずにはたき落とした。
「さあ、続きを」
「……葉を刻み、柔らかくなるまで煮詰めよ……」
ほんのりスープの匂いが立ち込める。
「チュー! チュー!」
魔鼠はまた一つ、自由を取り戻した。
一つの魔導陣の契約解除のたび、二人は議論を交わす。
「やはり、古代語?」
「いや蛮族の古の文字かもしれませんぞ」
キリルは分厚い魔導書を開く。
残りの魔導陣を解除し終えたときは、すでに昼を過ぎていた。
キリルは重々しく頷いて一時間の昼休憩を告げた。
昼食は解析局の食堂で取った。
あの二人、いつ寝てるんだろう?
エリート揃いの解析局の魔導師に冷たい視線を向けられながら、カーシャ(雑穀の粥)をすすった。
食欲は全くなかった。
魔導を通し続けた左手の痺れは限界に近かった。
丸二日で百八の魔導陣を展開し解除したことは、今までなかった。
ペット魔獣だったら、一つの魔導陣に八つの文言を刻める。
多くても一日で五つの魔導陣の展開しか、したことがない。
重たい足をキリルの待つ部屋へと向ける。
また百八個やれと言われたら、発狂してしまいそうだった。
キリルは言った。
「ヴェーラ師。協力、感謝する」
「……はあ」
キリルはしばらく黙っていた。
沈黙に耐えられず声をかけようとしたとき、キリルは口を開いた。
「帰ってよろしい」
「……はい?」
キリルはため息をついた。
「例の魔導陣のデータは、十分すぎるほど取りました」
「解明できたのですか?」
「これから、一つずつの魔導陣の言語解析に入ります」
「魔導師資格は? これまで通り仕事をしてもいいのですか?」
「委員会にかけたところ、無害という結論になりました。保留つきですが」
その言葉に、私は全身の力が抜けた。
「本人が意図して使っている魔導陣とは断定できません。従って魔導十戒の即時適応は見送られました」
キリルもホッとしたように言った。
「上の連中は、わかっておらんのです」
記録術師が嘆息した。
「これは世界をゆるがす革命的な大発見ですぞ」
「だが、たかがレシピだ……」
その言葉とは裏腹に、目だけが笑っていなかった。
キリルの目は一瞬、大量殺人鬼のような危険な光を発した。
そして目を閉じる。
「今後は、すべての魔導陣展開の記録を取ること、月に一度の解析局への出頭が必要になります」
「……分かりました」
「ヴェーラ師、私は必ず、この魔導陣の謎を解き明かしてみせる」
帰りは自分で帰れとのことだった。
解析局の門を出ると、所長が魔導単車に乗って待っていた。
「ヴェーラ……大変だったな」
「所長……?」
思わぬ出迎えに私の目頭が熱くなった。
「キリルから連絡が来てな。三日で解放されてよかった」
張り詰めていた緊張が解けて、膝が崩れる。
「酷い顔だぞ。今日はもう休め」
ドミトリは笑った。
「その前に、帰りに食堂にでも寄るか」
「シルニキは、もういいです……」
ドミトリは苦笑した。
魔導単車にまたがる。
「……しっかり捕まってろ」
痺れる左手を右手でしっかりと握る。
私は所長の背中に額を預けた。
それだけで、ようやく息ができた。




