7話 魔鼠
その日は二十六個目で、限界だった。
魔導バスの終電はとうに終わっていた。
解析局の魔導車で自宅に送ってもらうと、すでに深夜だった。
翌朝も魔導車が迎えに来ると告げて運転手は去った。
「これなら、魔獣案件のほうが良かった……」
最後は呂律が回っていなかった。
キリルは新しいおもちゃを見つけた子どものように、疲れ知らずに興奮していた。
二十七個目の詠唱に失敗したとき、キリルはようやく疲れた私を認識できたようだった。
「実に面白い。確かに噛んでも、魔導陣は展開できている……最後は、魔導陣の方がレシピになっていた……自覚はあるのか?」
私は朦朧とした頭で首を振った。
失敗した魔導陣は霧散して、もう何を書いたのか覚えていない。
「この程度で……? 眠気は? 痛覚は? どの段階で鈍る?」
指先の痺れは限界だった。
もう魔導陣を開く体力は尽きていた。
キリルはため息をついた。
突っ伏した私にキリルはこう告げた。
「また、明日だな……まあこれから、解析が楽しみだ……」
本当にキリルは私を人として見ていないとその瞬間、確信した。
翌早朝、部屋のドアがノックされた。
昨晩、帰宅した格好でそのまま気絶するように寝てしまっていた。
枕に涎がべったりとついていた。
「ヴェーラ師。キリル主任がお待ちです」
「今、何時ですか……?」
まだ窓の外は暗かった。
「六時半です」
「……六時半? あと五分……」
いつもは八時まで寝ていた。
まだ夢の中だった。
「なんでも、魔導十戒で重要なことが分かったとか、主任が首を長くしてお待ちです」
「十戒ッ!?」
迎えの職員がそう言ったとき、私の心臓が飛び上がった。
魔導十戒……?
まさか、抵触した?
「五分、お待ちを……」
私はがばっと起き上がった。
慌てて髪をブラッシングする。
どうしても癖毛はぴょこんと跳ねてしまう。
涎のこびりついた顔を冷水で流す。
しわだらけの魔導師のローブを着替え、作り置きの赤いモルス(煮込んだベリーのジュース)を飲み干すと少しだけ頭がしゃきっとした。
「朝食は車内に用意しております」
「事務所へは、連絡しなくても大丈夫ですか?」
「すでに一週間、借り受けると連絡をいれています」
「……一週間」
絶望的な気持ちになった。
この生活を一週間?
私はまだ薄暗い街を、魔導車で連行されるように解析局に着いた。
朝食に用意されたブッターブロート(サンドイッチ)の味は、よく分からなかった。
解析局に着くと、別の部屋に案内された。
キリルと記録術師が私を待っていた。
二人は記録魔像を見ながら議論を交わしていた。
「おはよう。ヴェーラ師」
「もしかして、十戒に抵触したんですか……?」
気が気ではなかった。
「魔導十戒? ああ、大丈夫ですよ」
「キリル主任。この二十七番目の魔導陣の文言ですが、確かにガルブツィ(ロールキャベツ)のレシピですぞ」
「二十七番目は、鳴き声の音量の契約だったな」
「そして、詠唱の方はレシピでは、ありませんな」
「逆になってるのは、その場で分かった」
キリルは手帳を見ながら相槌を打つ。
「……あのう」
二人は私をそっちのけで話を続けている。
「なにか、分かったんですか?」
二人は一瞬、止まった。
「見てください。この一瞬だけ、例の魔導陣が消えているのです」
「だが、本人はレシピを書いているつもりは、ないはずだ」
「この二十六番目と失敗した二十七番目の例の魔導陣の展開の差になにか理由があるはずですぞ」
「確かにこのグラフでは魔導抵抗が一瞬だけ最大になっている」
「魔導閾値がここだけ振り切れていますな」
そして私を無視して話し出した。
「続きの契約は……?」
キリルは楽しみを邪魔された目になった。
そしてため息をついた。
神経質そうに、とんとんと机を叩いた。
そして、記録魔像を巻き戻す。
「見てください。この部分です」
指をその部分に向ける。
「二十六の魔像解析では、驚くことにヴェーラ師。あなたの詠唱は、レシピではなく、完全に文言と同じ言葉で再現されている」
「……つまり、どういうことですか?」
私の声はかすれていた。
「ヴェーラ師。あなたは……」
キリルは一拍置いた。
「正しい詠唱をしている」
「……え?」
「だが、我々には……レシピに聞こえる」
——じゃあ、私は間違っていなかった……?
うすうす気がついていた。
私はレシピを詠唱しているつもりなどないし、料理もできない。
「私は、ガルブツィなんて作り方も、材料も知りませんから」
「実習時代に一つだけ残された指導員の記録……、魔導陣がレシピで、文言が詠唱だった。そう……今とは逆でした」
「逆だった……?」
二年間ずっと、逆だった……
「でも、ドミトリ所長の封印の契約魔導陣は上手くいきました」
キリルの目が再び光った。
「ドミトリ師の魔導拒絶反応の強さが鍵です」
「そうです。ドミトリ師と関わっていないその後の研修は、全て失敗していますぞ」
今、ドミトリ所長と働いているから……成功している?
「詠唱が失敗すれば、魔導陣は維持できず霧散する。だから記録には残らない。その記録が残っていたのは奇跡的です」
それが今まで、誰も面と向かって間違いを訂正できなかった理由?
干渉魔導では、火、風、水、土を扱う。
魔導師の花形、攻撃魔導。
その場で魔導陣を展開し詠唱を行う。
そうしないと敵に攻撃をされてしまう。
実習とはいえ、実戦を視野に入れていた。
召喚魔導も幻惑魔導も、付与魔導も同じく実戦形式だった。
私の魔導陣はことごとく霧散した。
回復魔導研修では、魔導そのものを展開するのを拒否された。
人体には、危険すぎてかけられないと。
数々の失敗が頭を駆け巡った。
二年間の失敗の原因がここにある。
でも、なんで?
なんでレシピ?
顔に出たのだろう。
キリルが気の毒そうに言った。
「例の魔導陣の仕業なのは、間違いがない」
「では、魔導十戒は?」
「……結論から言う」
キリルの言葉に一瞬、呼吸が止まる。
「記録魔像では、違反は出なかった」
「つまり?」
「魔導十戒には……抵触はしない」
その言葉を聞いて力が抜けた。
詰めていた息が一気に吐き出される。
「意図してかけたのでは、ないのですからな」
でも、キリルの目は輝きを増した。
「これは、新しい発見だ……応用できれば、魔族との戦いで有利になる……」
「研究論文として認められれば、解析魔導師の教授の地位も狙えますぞ」
「あるいは、王宮魔導部隊にも……」
「これは、国家案件ですぞ」
記録術師も目を輝かせた。
二人の目が同時にこちらを向いた。
その視線は、標本を見る目だった。
その日は六十二の魔導陣の解除をさせられた。
あと二十個、到底無事に終われるとは思わなかった。
今日と同じことが、あと二十回。
——ドミトリ所長……助けてください……
涙が枕を濡らした。
そのとき、私は気づいた。
自分が、あの人を頼りにしていることに。




