6話 百八
カビ臭い本の匂いが漂う部屋だった。
壁際にぎっしりと本が立てかけられている。
「ヴェーラ師。座ってください」
キリルは応接用のソファに手のひらを向けた。
テーブルに馴染みの球体が座布団の上に乗っていた。
「魔導係数の測定ですか……?」
「ええ。まずは、今の数値を確認しましょう」
キリルの目が光った。
十二歳で村で初めて測ったときは11.2の数値が出た。
これは王立魔導学院の最終学年の上位者の数値と同じだった。
私が六年間、特待生でいられた理由でもある。
「あなたの学院時代、研修時代、そしてこの一週間の奴隷契約。全て確認しました」
その言葉に緊張が走った。
あのときの失敗も、研修のときのあの失敗もみんなバレてる。
「心配しなくても、大丈夫ですよ」
キリルは優しく笑って言った。
それは、これから実験を行う魔鼠を安心させるときに使う口調だった。
「さあ、魔導係数を計測しましょうか」
「……はい」
私は魔導係数計測具に左手をかざした。
魔導は込めなくてもいい。
魔導流量と魔導抵抗の差が数値になる。
まもなく数値が出た。
10.98
——十二歳から、初めて変わった……
コンマ1のしのぎを削る世界。
普通、魔導の修練を積めば積むほど魔導係数は低くなる。
でも、私は十二歳のときから今まで数値はずっと同じだった。
数値がゼロに近いほど、魔導抵抗は受けずに強力になる。
それが、常識だ。
人類最強は9.58
伝説の干渉魔導師——疾風ヴォルトの記録。
「ドミトリ師の影響ですね」
キリルは断定した。
所長の魔導係数は10.08
いつだったか、聞いたときに教えてくれた。
魔導係数が1以内の差は、お互いの魔導係数を高め合う。
日頃の魔獣との契約と蛮族奴隷の契約は、確かに魔導師として一段ステップアップしていたという実感はあった。
「11.1を切れば、干渉魔導師の受験資格を得られますが……」
キリルは目を細めた。
その言葉に私の胸は高鳴った。
多くの受験者は二年間の研修中に11.1を切る。
でも私には、体力がない……
私は首を振った。
実戦で魔導を展開し続ける自信はなかった。
「ヴェーラ師。あなたの筆記試験は優秀だ。しかし体力がなく、実技もダメだった」
「……」
言われなくても分かってる。
「なぜだか、分かりますか?」
「三つ目の謎の魔導陣?」
それしか考えられなかった。
「そうです」
キリルは測定器具を横に押しやるように、黒い箱をテーブルの上においた。
「今から、この魔鼠に契約をしてもらいます」
蓋を開けると黒い鼠が姿を現した。
「この魔鼠の全ての契約を封じてもらいます」
「……分かりました」
もう逃げ場はなかった。
私はこの魔鼠にかけられた魔導陣を展開して確認してみた。
一つ目の文言が浮かぶ。
《一つ、悪魔化しない》
これはいかなる魔導師であっても封印は出来ない。
その上に展開している魔導陣の数に絶句した。
——ちょっと待って……
いくつ魔導陣が掛けられてるの?
指の一本、関節一つ。
瞬きの回数、呼吸の間隔、睡眠時間、排泄量の重さ——
すべてが契約で縛られていた。
「これ、全部ですか? いくつあるんですか?」
キリルは薄く唇を歪ませた。
「百八の契約、全部です」
私は頭を抱えた。
全ての契約を一つずつ書き換えないといけない。
何日……かかるの?
「いつまでですか?」
「終わるまで」
キリルは身を乗り出した。
「記録術師がその間、全てを記録します」
キリルは本当に私を研究用の魔鼠だと思ってるのではないか、と不安になった。
「魔導陣と詠唱、全てを解析します」
「あの、奴隷の魔導陣も解析したのですよね?」
キリルはにこやかな笑顔を浮かべた。
「もちろんです。大変、素晴らしい魔導陣です。魔族でも解除できないでしょう」
そして真顔になった。
「あの三つ目の魔導陣が、読めなければですが……」
その声が一気に絶対零度にまで下がった。
「もしかして魔導十戒に抵触するなんてことは……?」
それが一番不安だった。
そうなれば魔導をすべて封じられてしまう。
魔導師廃業……そして、無職……
「『第十戒 解明の戒め』ですね」
その言葉にびくっと肩が震える。
「解明できない魔導陣の使用禁止条項……」
キリルの目が極限にまで細まる。
「それを、これから解明します……」
その声の響きに、背筋が凍りついた。
「すでに記録術師は隣の部屋で準備をしています」
絶対に謎を解くという鋭い視線が突き刺さった。
「分かりました。お願いします」
私は覚悟を決めた。
一つ目の魔導陣を展開し、上書きをしていく。
《一つ、寝起きは二時間ごと、ヴェーラの名において、この契約を封じる》
魔導陣に文字を刻んだあとは、詠唱。
「一つ、肉を包み、白き衣で閉じ、熱湯に沈め、浮かびし時に完成とす、美味しく召し上がれ!(一つ、寝起きは二時間ごと、ヴェーラの名において、この契約を封じる)」
食欲を刺激する、ほんのりとした匂いが研究室に漂う。
「ペリメニ(水餃子)……」
キリルは手帳に魔導陣と詠唱を書き連ねていく。
”寝起き”の契約は、ペリメニのレシピらしかった。
——あと百七の魔導陣……
気が遠くなりそうだった。
終わるまで、多分、帰してくれない……
絶望的な気持ちで文字を刻んでいく。
《一つ、排尿は、四時間ごと、ヴェーラの名において、この契約を封じる》
「一つ、肉を煮崩し、冷気にさらして固めよ、美味しく召し上がれ!(一つ、排尿は、四時間ごと、ヴェーラの名において、この契約を封じる)」
「ホロデッツ(肉の煮こごり)……」
キリルの目が輝いた。
あと百六……
終わる気がしなかった。




