83話 脱出
何時間経ったかはわからない。
指先はなんとか動くようにはなった。
全身の感覚が戻ると同時に、床の冷たさが体を冷やしているのがわかった。
縛られた縄が手首に食い込み、指先の痺れは薬の作用なのか寒さのせいなのかわからない。
寒さが一段と厳しくなっていた。
お腹が空いてきた。
トイレも……
やばい。
漏れる。
まずい。
もしここで漏らしたら、服が濡れて体温が下がる。
夜になれば氷点下にまで気温は下がる。
そうなったら、たとえ縄を解いても凍える体では逃げられない。
せめて動ければ、まだ我慢ができるのに。
またいつ、あいつらが姿を見せるかわからない。
でも、今、魔導陣を開いたら、確実に戻ってくる。
「う……」
限界だった。
たまらず私は左手に魔導を流した。
今まで溜め込んでいた膨大な魔導がほとばしった。
かじかむ指先で文言を刻む。
《鎮静をとき、術者に活力を与えよ》
感覚の鈍い指先では、きちんと刻めているかはわからない。
でも早くしないとあいつらが戻ってくる。
というよりも、漏らす。
喉の奥で文言を唱えると、香ばしい匂いが漂った。
足が動く。
首を回せる。
私はごろごろと床の上を転がった。
足を屈伸させると一時的に尿意が引っ込んでいくのがわかり、深いため息をついた。
「間に合った……」
もう一度。
早くしないと。
「なんだ! この魔導反応は!」
「まさか、起きたのか?」
扉の外で叫び声が上がったのが聞こえた。
靴音が近づいてくる。
縛られた全身をもぞもぞと動かしながらまた魔導陣を開く。
自分に付与魔導をかける。
筋力を上げて縄をほどかないといけない。
逃げる素早さも、聴覚も上げたい。
《術者に五感増大、筋力、敏捷、持久力を与えよ》
今度はスムーズに刻めた。
今までこんなに付与したことはない。
自分に付与したことも初めて。
反動は必ず来る。
でも、ここから脱出するためには必要。
小さく詠唱すると肉の焦げる匂いが立ち込めた。
その瞬間、扉が開いた。
「なんだ? この匂いは?」
「クベーチェフスキー風肉焼き?」
「……なぜ?」
私は両腕に力をこめた。
上下左右に腕を動かすと少しずつ隙間が出来ていく。
「ヴェーラ・クリューチナ! 目覚めているのか!」
「まさか!?」
廊下の魔導灯の明かりが逆光となって暗い室内に影を落とした。
気合いを入れて縄を左右に広げていく。
縄がミシミシと引っ張られ緩んでくる。
「もう少しなのに!」
さらに力を込めて縄を引っ張る。
隙間ができるとすぐに左手を引っこ抜いた。すると同時に、部屋の魔導灯の明かりが点いた。
右手で目隠しをずらし、猿轡を下げると扉の外に人影が何人か見えた。
「起きているぞ!」
「非常事態だ!」
先ほどの二人の声だった。
後ろに何人かの灰色魔導師の姿が見える。
私はすかさず左手をかざした。
神の魔導陣が最速で開かれる。
大河のような魔導が流れ出る。
《一つ、術者に危害を加えるものたちを、ヴェーラの名において強制拘束する》
慣れ親しんだ契約魔導を神の魔導陣で展開する。
文言を刻むと同時にシルニキの匂いが立ち込め、目の前の灰色のローブたちが崩れ落ちた。魔導十戒なんてもう言っていられない。
崩れ落ちた灰色魔導師たちは床に這いつくばった。
三つ連続で魔導を使ったが、まだ余裕があることに驚いた。
半年前だったら、魔導師相手に強制拘束なんて絶対にかからなかった。
エフロシーニャとの修行の効果だ。
でも魔導師だったらこの魔導反応に、寝ていても飛び起きるはず。
特大の非常警報みたいなもの。
エフロシーニャも絶対に気がつく。
所長も……
早くここから逃げて、スズダールに危険が迫っていることを伝えなければいけない。
足元に四人の魔導師が倒れていた。
口をぱくぱくと開き、憎悪のこもった目で私を見上げている。
私は扉に近づくと廊下に人の気配がないか探った。
私は目を閉じて神の魔導陣を開き観測した。
「ものすごい魔導反応だ! やられたか!?」
「悪魔の魔導陣を持つ魔導師だ。油断するな」
すぐ上に魔導師の影が六つ。
やがて階段に複数の足音が響いた。
聴覚を研ぎ澄ます。
「あの逃した魔犬がこの魔導反応で仲間を連れてくるぞ!」
「早くこの魔導反応を止めるのだ!」
アイカ! 逃げられたんだ……
強化した聴力に会話が届く。
「もうじきオルロフ様が到着する。絶対に逃すな」
「催眠弾、閃光弾を使え」
オルロフ……
その聞こえた名前に震えが走った。
オルロフと一緒にいたあのムラークチュマも来る?
私は引き扉の影に隠れて観測の範囲を広げた。
すぐに馴染みのある魔導反応が飛び込んできた。
ドラグ!
ドラグの魔導反応がすごい速度で、こちらに近づいてくるのがわかる。
でもエフロシーニャ師とアイカの魔導反応はなかった。
やがて廊下の石畳に灰色のローブ姿の影が観測映像として浮かんだ。
その手には魔導ライフルの影も。
どうしよう……?
また拘束する?
でも次、魔導を展開したらきっと倒れてしまう。
魔導の流れは弱くなっているのがわかる。
「倒れているぞ!」
「気をつけろ!」
「すごい魔導反応だ」
灰色の影はこちらに近づいてこない。
神の魔導陣を開いたら、きっと逃げられてしまう。
でもこちらが姿を見せたら、狙撃される。
このままオルロフが来るのを待っている?
オルロフが来るということは、あのムラークチュマも?
私はさらに観測を広げたが、魔族の反応は見つからなかった。
やはり観測部屋でないと、遠くの魔導反応はわからない。
でも、間違いなく私の魔導反応は向こうに届いているはず。
早くなんとかしないと。
まだドラグたちが来るまで、しばらくかかりそうだった。
そのとき観測魔導に北方師団の基地から多数の魔導反応が出現した。
「この魔導反応! 軍が来るぞ!」
「やむをえん」
発砲音が立て続けに響いた。
「きゃっ!」
私の強化された足は、扉の影から部屋の奥にまで飛んだ。
その敏捷性と力強さに私の体がついていかない。
扉の下半分と石畳が爆音とともに弾け飛び、倒れている魔導師にも着弾した。
壁際にひっつき頭を抱える。
仲間がいても容赦なく撃ってくる。
次いでこちらに走ってくる音が廊下にこだました。
来る!
私は神の魔導陣を開いた。
そのとき、部屋の中に何かが投げ込まれた。
からんからんと音を立てて、次の瞬間、爆発した。
「!!」
感覚強化した耳と視界に、爆音と閃光が襲った。
そしてこの匂い……
催眠の薬……
一瞬にして聴力と視力が奪われ、反射的に鼻をつまむと神の魔導陣が引っ込んだ。
しまった……
また捕まってしまう……
私は闇雲に左手をかざし神の魔導陣を開いた。
考えると同時に文言を刻む。
魔導陣は目視できない。
範囲も分からない。
いっそのこと、この建物ごと!!
観測した建物を包み込むように魔導陣を展開する。
私は左手から大量の魔導を流した。
温存しておきたいが、捕まったら次は逃げられない気がした。
今だったら、エフロシーニャとアイカとドラグが来てくれるはず。
関係ない人を巻き込まないように……
《一つ、術者に危害を加える者のみを強制拘束す……》
刻みながら文言をつぶやくと、むせかえるほどのチーズの焼ける匂いが立ち込めた。
成功したのかどうかわからない。
すぐに催眠の煙が私の意識を奪っていく。
でもその瞬間、アイカの吠えたてる声が聞こえた気がした。
耳はまだぐわんぐわんと鳴り響き音を拾えない。
幻聴かもしれない、でも、私には区別がつかなかった。
そのあと私は意識を失った。




