77話 再出発
オルロフのクーデター未遂から、三ヶ月が経った。
短い夏は一瞬にして終わった。
いつの間にか冷たい風が村を吹き抜けていた。
季節は秋の終わりに入っていた。
故郷に戻ってきた最初の一ヶ月はエフロシーニャの治療院を手伝っていた。
早く隠れ家に行って、所長の魔導反応を観測したかったけど、エフロシーニャは許してくれなかったのだった。
「いつまで治療院にいるのですか?」
「王都と軍が落ち着くまでです」
エフロシーニャは治療院用の口調で微笑みながら言った。
「レオニード少将が軍をまとめるまでは、ここで回復魔導の修行です」
「……はい」
私が身につけていた黒のローブは、灰色のローブに変わった。
用意されていた灰色のローブに袖を通したとき、エフロシーニャはこう言った。
「契約魔導はそこそこですが、次は回復、観測、付与を覚えてもらいます」
「……はい」
「それができたら、刻印、解析、断絶、召喚です」
「……」
簡単に言うけど……
通常、専門替えは最適化した魔導陣を一から作り変えないといけない。
それぞれの魔導には固有の癖があり、効率的に運用するためには常時その形に合わせておく必要がある。
文言を刻みやすいように、魔導の通り道をあらかじめ作っておくのだ。
でもエフロシーニャの魔導陣は、ごくシンプルな作りだった。
ざっくりと八等分し、使うときにそれぞれを広げる感覚とエフロシーニャは説明した。
でもそれは緻密な魔導の制御が必要になる。
「干渉と幻惑は軍のみで、今の世では御法度です」
「はい」
さしものエフロシーニャも法令遵守の意識は持っていることに少し安心した。
「使おうと思えば使えますが……」
「……はい」
私は即座にその思いを撤回した。
エフロシーニャだったら、こっそりとやりかねない。
「神の魔導陣に頼ってはダメです」
「はい」
この治療院は魔導反応が漏れないように断絶魔導の刻印を施されているという。
グロモフたちにつきまとわれたときに、治療院に帰っていることがバレないようにしたらしい。
「魔導を使えるのは、この治療院と隠れ家だけです」
「はい」
治療院では、さっそく村人の回復魔導の実践をさせてくれた。
「猪と衝突したのですね」
「いてて……」
「肋骨が折れています。ヴェーラ師。痛みの緩和をお願いします」
エフロシーニャは聖母のような微笑みを浮かべて私に言った。
目だけは笑っていない。
私は神の魔導陣を開き、文言を刻んだ。
《この者の痛みを緩和し、砕けしものを繋げ》
左手から大河のような魔導が魔導陣に注がれていく。
「果実を煮て漉し、とろみをつけてなめらかに」
詠唱をすると、甘ったるい匂いが診察室に立ち込めた。
「ふう……」
「ばかものッ!!」
「うっ!!」
壮年の患者が苦しみ出した。
胸を押さえてもがき、脂汗が額に浮かんだ。
「いきなり治そうとしてはいけません」
そう言うとエフロシーニャはすぐに鎮静の魔導をかけた。
「骨折だけならいいですが、肺に刺さっていたらどうなりますか!?」
「!!」
エフロシーニャの口調は厳しかった。
穏やかな分、こちらの方が怖い。
「だ、大丈夫ですよね?」
私はものすごく不安になって青ざめた。
鎮静の魔導がかかった患者は穏やかな寝息を立て始めていた。
「まあ、症状からは肺には刺さってはいませんが……なにがあるかわかりません」
エフロシーニャはため息をついた。
「急に治したら、体がびっくりしてショック死しますからね」
「なにが……起きたんですか?」
「彼は生まれつき心臓が弱いのです」
そしてじろりと私を睨んだ。
「神の魔導陣を使ってはならないと言いましたよね?」
「……はい」
「もともとの魔導陣では、そんなに大量の魔導は流れなかったはずです」
そんなことを言われても魔導を流すと強制的に神の魔導陣が展開されてしまう。
「使い分けが必要なのです」
「……はい」
「それができないと暴走と同じです」
「……」
王宮の地下の壁ごと崖を打ち抜き、悪魔の上半身を吹き飛ばしたことを思い出した。
でも、どうやって使い分ければいいのだろう。
「この患者はしばらく絶対安静です。……ドラグ」
エフロシーニャは寝台のまま患者を運んでいくドラグを見ながら、私に諭すように言った。
「魔導流量を抑えれば神の魔導陣は開きません」
ドラグは治療院ではエフロシーニャの助手として薬草や物品の管理をしていた。
治療のときは、静かに扉の脇で見守っていた。
そのドラグは村にすぐ、受け入れられた。
これまでの蛮族の運用によって、故郷から魔族を退けてきたことが村人たちに受け入れられた理由だった。
「ドラグさん! 手伝っておくれ」
「……分かった」
「ドラグさん。シルニキ食べにおいで」
「……感謝する」
「ドラグ! 翼見せて!」
「ダメだ」
「うえええん!」
ドラグは村にいるときは治療院の空き部屋で過ごした。
王国語も少しずつだが理解するようになっていた。
そしてエフロシーニャや村人にこき使われているようだった。
私は夜になると実家に戻っていた。
「相変わらず、料理は下手ね」
「ひいばあさまの影響だろうな。食えたもんじゃないな」
「バウバウッ!」
「……アイカまで」
両親は帰ってきてすぐは歓迎してくれたが、家事が全くできない私にため息まじりの苦情が増えていた。
「こんなのでは、いい旦那さんは見つからないわよ?」
「灰色魔導師はいい加減やめて、花嫁修行しないと嫁き遅れになるぞ?」
「……また王都に行くからいいもん」
その呟きは口の中で消えた。
でも私は所長においしいものを食べてもらいたいと料理の修行も始めた。
村にいるときはアイカと訓練を続けた。
体力もつけないと。
どさくさに紛れて、元軍用犬で契約局所属のアイカを連れてきてしまったが、今さら返しようもない。
「なんでヴェーラが作ると美味しくなくなるのかしら?」
「帰ってきた頃に比べたら、まだ食えるな」
詠唱では美味しそうな匂いを出せるのに、母と同じレシピ、同じ分量で作ってもブリニは焦げ、シルニキはベチャベチャになり、メドヴィクは崩れ落ちた。
「冬になったら、食材がなくなるからヴェーラはもう作らないで」
「……はい」
母にそう言われて落ち込んだ。
そうして村では、治療院で回復魔導を学び、実家では料理を練習し、体力をつけるためにアイカの訓練に明け暮れていた。
私の修行は前途多難だった。




