56話 コルジキの朝
「ヴェーラ!! スヴェトラーナ!!」
部屋の扉が激しく叩かれた。
イリアの緊迫した声が響いた。
「魔物だ!! 起きろ!!」
「……魔物!?」
スヴェトラーナがその言葉で飛び起きた。
「イリア師……魔物って、魔族の?」
「竜だ!」
「竜!? 竜って神話の……?」
スヴェトラーナが困惑した声を出した。
「分からない! 早く起きてくれ!」
「分かりました……ヴェーラ師?」
私はまだ寝足りなかった。
あの空船を見たら、誰だって驚く。
「……そらふねです。スヴェトラーナさん」
「空船?」
「ヴェーラ!! 起きろ!!」
「イリア……大丈夫です……」
私はまだ夢の中だった。
王都で所長とあの事務所で働いている夢。
スヴェトラーナさんにはゾロトワ事務所に帰ってもらって、新しい事務員を雇って。
魔導車の免許を取って……
夢の続きを、もう少し見ていたかった。
でもそれとは別に、甘い香ばしい匂いが漂っていたのが気になっていた。
コルジキの匂いだ……
蜂蜜とスパイス、サワークリームをたっぷりと使った焼き菓子。
お母さんがよく作ってくれた。
「ヴェーラ! 空船ってなんだ!?」
「……なんじゃ、騒々しい」
イリアがスヴェトラーナから話を聞き、戸を叩く音がさらに響いた。
私は毛布を頭から被って、夢の世界に戻ろうとした。
「……コルジキ、食べたいなあ」
「ヴェーラ。起きなさい」
エフロシーニャの声が響いた。
「……はい! エフロシーニャ師」
その言葉に私は飛び起きた。
「食堂に来るように」
「すぐに行きます」
「イリア師。あれは魔物ではない。空船じゃ」
「だから、空船ってなんだ!?」
戸の向こうで二人のやり取りが聞こえる。
「ちょっと、待っててください」
何かを話しながら二人の足音が遠ざかる。
私は起き上がり、身支度を整えた。
スヴェトラーナも灰色のローブをまとっている。
昨日は久しぶりの入浴でさっぱりとし、体は軽くなっていた。
癖毛がぴょこんと頭の上で跳ねる。
今日、王都に向かう。
所長……
待っていてください。
必ず、助けに行きます。
食堂に行くとコルジキが焼き上がっていた。
ドラグがじっと焼き菓子を見つめていた。
その隣の鍋には、あまり食欲がそそられない色のカーシャが湯気を立てていた。
「また、カーシャ……」
「コルジキを焼いておいた」
イリアがオーブンの天板から素朴なクッキーをカゴに入れていた。
エフロシーニャからどう説明を受けたのか分からないが、落ち着きを取り戻していた。
「朝、エフロシーニャ師がまたカーシャを作っていたから、保存食として焼いたんだ」
「まあ! イリア師、素敵ですわ」
スヴェトラーナの顔が輝いた。
私はコルジキをつまんだ。
カリッとした食感にスパイスと蜂蜜の甘さが身に染みた。
「菓子職人でも、いけますわね」
スヴェトラーナもコルジキを一口かじって微笑んだ。
ドラグもそれを見て一口つまんで目を丸くした。
「びっくりしたぞ。ヴェーラ。菓子を焼いている間にドームに行ったんだ」
「……魔獣? 空船と言ってましたわね?」
「驚いたよ。ヴェーラは本当に、とんでもないものと契約したな」
イリアは首を振って私を見た。
エフロシーニャ師は、イリアに何と言ったのだろう。
「あんな不気味なもの。普通、魔獣と思うだろう。腰を抜かした」
「バウッ」
アイカがイリアを見上げて同意したように小さく吠えた。
「さあさあ、食べながら作戦会議じゃ」
エフロシーニャが椀を並べ、私はカーシャをよそった。
昨晩とは違う草っぽい匂いがする。
「魔導の流れをよくする薬草が入っておる」
「……」
味は度外視のようだった。
でも、今日はコルジキがある。
カーシャを匙ですくって、躊躇いながら口に運ぶ。
イリアが顔をしかめ、スヴェトラーナが慌てて口を押さえた。
口中に広がる苦味とえぐみと酸味、鼻に草の匂いが突き抜ける。
「ヴェーラは、いつもこんなのを食べていたのか?」
「……いつもは、お母さんの美味しい料理でした」
「バウ……」
「病気のときだけ……」
アイカに盛られた食事も、カーシャのかかった肉の塊だった。
不服そうに小さく吠えた。
「くだらんことを言っておらんで、全部食え」
「……はい」
エフロシーニャは大量に作ったカーシャをそれぞれの椀に注ぎ足していく。
ドラグとイリアにはたっぷりと。
ドラグは無表情でかき込んでいる。
「作戦会議とは?」
イリアは量が増えたカーシャを冷めた目で見ながら聞いた。
エフロシーニャはもりもり食べてから答えた。
「あの空船で王都に行ったら、わしらは悪魔だと思われる」
「……確かに」
イリアと私は頷いた。
「そこで王都の近くの森に隠してから王都に入ったほうが良いじゃろ?」
「それでしたら、私の別荘がいいかもしれません」
まだ空船を見ていないスヴェトラーナが提案した。
私は首を振った。
「でもあんなのが降りてきたら、すぐに軍に通報されますね」
「ですが、うちには魔導車もありますし。王都に潜入するのでしたら、別荘がいいですわ」
エフロシーニャは考えながら同意した。
「ふうむ。見つからぬよう、夜に王都近くに降りればいいかの?」
「それならば……大丈夫か」
イリアが同意して昨夜の疑問を出した。
「魔族が王都に向かっていると。その規模や進軍具合は?」
「昨晩、大きな魔導反応があった」
エフロシーニャはカーシャを平らげてから、お茶を啜って答えた。
「あの規模の反応なら、レオニードじゃろう」
「レオニード大佐の部隊と交戦している?」
「以前も観測した反応と同じじゃ」
レオニード連隊。
選り抜きの魔導師部隊を抱える軍の精鋭。
その情報にホッとした息がスヴェトラーナからも漏れた。
「お父様が最も信頼している魔導士官ですわ」
「じゃが、いくつかの魔族の部隊は王都方面に向かっておる」
「!」
「数は?」
「おそらく二つ以上……」
部屋の空気が重くなった。
魔族は魔獣を従えていることが多い。
もちろん悪魔化したら、手に負えない。
魔族が使役する魔獣にも、悪魔化禁止の魔導陣はかけていると思うが……
不安が募る。
王都が灰になったら、もう契約魔導師事務所どころではない。
こんなところで悠長にカーシャなんて食べている場合ではない。
私は立ち上がった。
「早く、助けに行かないと」
「観測部屋で、これ以上覗いていても仕方がないな」
エフロシーニャは立ち上がった。
イリアもそれに続いた。
「あれは、動かせるのか?」
「なんとか、なるじゃろ」
そして私たちを見まわした。
「王都に出陣じゃ!!」
エフロシーニャは拳を突き上げた。




